名前を呼べない、取るに足らない理由 壇主 東京鬼祓師 2013年04月29日 ※エンディング後 壇主同棲設定です 今日はおれも壇も予定がなく、一日暇だった。ぽっかりと出来た空白の時間。だけど、おれたちは出かけるわけでもなく、二人でのんびりテレビを見ていた。 普通ならどこかに出かけるかとか、選択肢もあっただろう。外は晴れていて、出かけなきゃもったいないと言わんばかりの陽気だ。 でもおれたちはそっと寄り添って座り、そのまま動こうとしなかった。最近はお互いが忙しかったり、片方の時間があいても、もう片方が駄目だったり。何かと都合があわなかった。 だから、この時間はすべてを放棄しても、ただ隣に好きな人が居るって言う、些細な――でもとても幸せな時間を味わいたい。 両手でマグカップを持ち、自分で入れたカフェオレを飲みながら、おれは悦に浸る。自然と緩む頬。しまりのない笑みに気づいた壇が、読んでいたスポーツ雑誌から顔を上げ「何、気持ち悪い顔してんだ」と言った。「ふふふ」とおれは幸せを隠さずに笑い、壇にすり寄る。ふわりと鼻を掠めるシャンプーの香りは、おれと同じもの。ああ、一緒に暮らしてるんだな、と実感するおれに更なる幸福をもたらし、さらに壇の言うところの気持ち悪い顔になる。「壇と一緒に容れて幸せを噛みしめていたところですよ」「お前……」 はっきり嬉しさを表現するおれに、壇は一瞬絶句した。だけどすぐに破顔して読んでいた雑誌を床に投げる。 腕を伸ばして、ちびちびカフェオレを舐めるように飲むおれの髪の毛に指を差し入れ、くしゃりとかき混ぜるように撫でた。「ったく恥ずかしいこと言ってんじゃねえよ」「いつものことじゃないですか。今更そんなこと……」「ま、そうだけどな……」 長いつきあいになって、おれがどんな性格か壇は分かりきっている。軽く肩を竦め、頭を撫で続けた。 壇の手は撫でられていて気持ちいい。猫みたいに目を細めていると「今更って言えばよ」と壇が思い出したように言った。「千馗」「何ですか、壇」 呼ばれておれは壇を見る。だが、どうしてか壇は渋い顔つきになっていた。「それだよ、それ」「……はい?」 壇は撫でていたおれの頭から手を離し、そのままこっちの鼻先へと突きつけた。「どうしてお前はよ。俺を名前で呼ばないんだ?」「えっ……!?」 壇の指摘におれは動揺して大げさに体を振るわせた。両手で持っていたマグカップを危うく落としかけ、慌てて指先に力を込める。「……そこまで動揺することか?」 挙動不審になったおれを、壇が半眼で見やった。 変な誤解をされたくないおれは「違うんですって」とマグカップを近くのローテーブルに置いて、壇の方へ向き直った。「おれが壇を名前で呼ばないのはちゃんとした理由があるんですよう」「ふぅん……理由、ねえ」 あ、駄目だ。まだ怪しんでいる。 ……本当はあんまり言いたくない。だって、あまりに馬鹿らしい、取るに足らないものだとおれでも思うし。 だけど壇に呆れられる方がおれにはもっと怖くて。 おれは、小さく息を吸って正直に白状した。「だ、だって……」「だって?」「名前で呼ぶの、恥ずかしいですし……」「……はぁ?」 やっぱりだ。ぽかんと口を開ける壇におれは、頬を掌で包んだ。元々体温が高いのに、恥ずかしさからもっと熱が上がっていく感じがする。鏡を見たら、真っ赤になった自分の顔が拝めるだろう。「壇には大したことじゃなくても、おれにはすごく大したことなんです」 おれは横を向いてぼそぼそと呟いた。そう、おれは壇のことを名前で呼ぶことがとても照れくさい。口に出してしまったら、声からどれだけ壇のことが好きか、バレちゃうんじゃないかって。呼んだら、壇も喜ぶって分かってる。分かってるけど、その喜ぶ顔を見たら、おれが腰砕けになってしまうだろう。何せ壇に耳元で囁かれるだけでそうなってしまうのだから。推して知るべし、だ。 ただでさえ使いものにならなくなる時があるのに、そんな状況を増やしてたまるか。「おれはこれ以上熱くなりたくないんですって。察してくださいよう」「……」 壇は恥じ入るおれの横顔をじっと見た――かと思いきや、また腕を伸ばしてきた。今度は頭を撫でる為じゃなくて、おれの腰に回して引き寄せる。「っ」 後ろから抱きしめられる形になり、おれはびくんと肩を跳ね上げた。耳、耳のすぐ傍に、壇の息がかかってる……!「――千馗」 耳元で名前を囁かれる。意識して重低を響かせた声は、耳からダイレクトに痺れとなって腰に来た。 このままじゃあ、まずい。おれは「ちょ、ちょっとタンマ、壇」と体を捩って、壇の分厚い胸板を押す。「待たねえよ」 しかし壇はしつこくおれの耳元から唇を離そうとしない。「どうせお前は何でもかんでも恥ずかしがってばっかりじゃねえか。――いい機会だから、ここで徹底的に慣らした方がいいだろ」「慣れない! 慣れないから!」 おれは涙目でぶんぶん首を振る。徹底的に慣らす、と言うことは、ずっと耳元で壇の声を吹き込まされるということか。 ――冗談じゃない。 そんなことしたら、おれ、本気で腰が砕けてしばらく立てなくなっちゃう……! そしてこの展開だとおいしく壇に食べられるのは必死だ。嫌じゃない。嫌じゃないけど! 腰はもう壇の両腕にしっかり回されて固定されている。逃げ場はない。この危機を脱する唯一の方法は――。 おれは「わかりました! 壇のこと、名前で呼びます!」と高らかに言う。ここは壇の要望を通して少しでも時間を稼ぐべきだ。そうすれば、ちょっとは冷静になるはず。おれも、壇も。 心境の変化に壇が「ほお」と口元を上げた。にやにやした笑いは、少し面白がっているようにも見える。 鴉乃杜の頃はおれがからかって、壇の反応を面白がっていたのに。今じゃすっかり立場が逆転している。ある時――おれにはよく分からないけど、多分クリスマスが終わった辺りから、壇は積極的になってきている。初めて出会った頃にはしないような、優しい顔でおれに微笑みかけ、伸びる手は迷いなくおれに触れる。だから、こっちはいつも調子が狂いっぱなし。壇に翻弄される。 壇が、こんなに意地悪な奴だなんて! おれは今まさにそれをしみじみと思った。「じゃあ、言ってみろって」 男に二言はないよな、と壇が念押しして言った。「……わかりました」 おれは観念し、大きく息を吸った。うう、恥ずかしい。恥ずかしすぎる。 頬が熱くなった。心臓がばくんばくんと鼓動を打っている。 このまま穴を掘ってそこに丸まっていたい気持ちを必死に抑え、おれは壇が待ち望んでいる言葉をようやっと口にした。「と、とう……じ…………さん」 言った。言ったぞおれは! よくやったと自分を誉めてやりたい! しかし待望の言葉が聞けたのに、壇は首を傾げた。「……なんで、さん付けなんだ?」「……おれには呼び捨てはまだハードルが高すぎて……」 燈治、と今のおれが呼んだら、多分恥ずかしさに叫ぶ自信がある。「だから、慣らしていくためにもまずはさん付けから、でいいですよね。と、とうじ、さん」「そのつっかえるのも慣らしていかねえとな」 ふんふんと頷きながら、壇はこれからどうすべきか解析していく。もちろん腰に回された腕は解けないまま――と言うより、背中から体重かけられているんですけども。 あっと、思っていたら押し倒されていた。フローリングに敷かれたラグの上、壇がおれを見下ろしてにやりと笑う。さっきよりも数倍は質の悪い顔で。「え、え、ちょ……っと、燈治さん? この展開は何なの?」「そりゃあ、少しでも慣らしておいたほうがいいだろ。名前呼ぶくらいじゃ恥ずかしがらないように、それ以上のことをたくさんすりゃあ、いけるだろ」「……」 うん、嫌な予感しかしない。おれは肘を突いて上体を浮かし、後ろへ逃げようとした。しかし壇はおれの行動など把握済みで、後頭部に手を回すと、自分の方へと引き寄せ接吻した。表面がちょこっと引っ付いて離れただけなのに、おれには効果が覿面で困る。竦めた肩を宥めるように後頭部を押さえた手が下がり、優しく背中を撫でた。「ここで逃げたら、十倍な」 囁く声に、おれは無駄な抵抗を止める。なにが十倍か、知りたいけど聞ける勇気はおれにはない。 間近で見つめ会う壇は、おれを見て惚けた顔で微笑んでいる。おれが、この男をそんな顔にさせているのだと思うと、なぜだか背中がぞくぞくした。 再びラグの上に横になったおれの服に壇の指がかかる。 観念したおれは「燈治さん」と名前を呼んで、これから来るだろう熱の波に備えるべく、そっと瞼を閉じた。 [0回]PR