20の命令 東京鬼祓師 2013年04月29日 長いので折りたたみ 持ってこい 十二月も半ばになると、日差しが出ても寒い。それでも燈治と七代は屋上で昼食をとっていた。例え寒くても、ここなら二人でゆっくり出来る。しかし時に駆け抜けるように風が吹き抜け、身体を撫でる。冷たさから無意識に肩を竦めてしまう燈治の真向かいで、七代が「……へくちっ」とくしゃみをした。「……千馗。お前ちゃんと服を着ろ」 すっかり温くなった緑茶を飲んでいた燈治は、呆れ気味に言う。七代の学ランを着ずに、カッターシャツにスクールベストで過ごしている。端から見たら風邪を引いても自業自得だと思われかねない。だが当の本人は「おれ平熱高いですからこれぐらい平気ですし」と我が道を進んでいる。しかし寒風でくしゃみをする辺り、全く平気というわけでもないんだろう。 変なところで強情だよな。緑茶の缶を地面に置き「いいからなんか上に羽織るもん持ってこい」と促した。「今日体育があったしジャージがあったろ」「別に昼休みの間ぐらい……」「いいから。昼休み中くしゃみして下らねえ心配させる気か」「……はーい」 燈治に引く気がないと悟ったようで、七代は渋々頷いた。食べていた総菜パンを一旦袋に戻し「じゃあすぐ戻ってきますから」と素早く身を翻し、校内へ走っていく。「早く戻って来いよー」 そう言って送り出し、やれやれ、と燈治はため息をつく。 二人の様子を柵の上に座って眺めていた白は「……やれやれはこっちの台詞じゃ」と口元を扇で隠し呟いた。「風邪を引かれて困るのなら、中へ入るよう促せば済むことじゃろうに。戻れとは言わぬのじゃな……」 惚けおって、と微量に苛立ちの滲む声で言い、白は七代が買ってきた昼食からこっそりくすねた駄菓子にかぶりついた。選べ 花園神社にある春の洞へ向かう途中、燈治と七代はコンビニに寄っていた。洞の探索は隠人との戦闘もあるので、思いの外空腹になってしまう。大量に食料を買って、多すぎたと思っても余ることは皆無だった。 目についた総菜パンを持っていたカゴに入れていく燈治は、ふと菓子が陳列されている棚を見た。 しゃがんだ七代が、顎に手をやり買うものを品定めしている。視線の先にあるのは菓子類でも特に安い駄菓子。 またか、と燈治は首の後ろへ手をやった。 七代は節約だと言い、最低限必要なものしか買わない。少ししか着ないしもったいないからと学ランも買わず、こうして食べるものすらぎりぎりまで出す金額を削る。結果、七代の口に入るのは駄菓子が主だ。それでは腹もすぐに減るし、栄養だって偏る。 目の前で倒れられたら、と思うと気が気じゃないときだってある。常日頃から心配している燈治はつい、空腹のあまり倒れる七代を想像し、心臓が鷲掴みされるような痛みを感じた。 首にやっていた手で後頭部を掻き、燈治は七代に近寄った。おい、と悩み続ける七代の二の腕を掴み、引っ張り上げる。「……壇?」 きょとんとする七代をそのまま冷蔵ケースまで連れていった。サンドイッチやおにぎり、弁当が並べられている棚を指し「好きなの選べよ」と言った。「何でです?」「お前いつも駄菓子ばかりだろ。奢ってやるからたまにはこういうのも食えよ」「駄目ですよ」と七代が慌てて首を大きく振った。「それじゃ壇のお金がもったいないです」「俺のことは気にすんなよ。それよりお前はもっと食うべきだ」 カッターシャツの袖から覗く手首は、男にしては華奢な印象を燈治に持たせる。七代が弱いだなんて、露とも思わない。だがやはり痩せ気味の身体は見ていて不安になる。「ええー……、でも……」 七代が遠慮するつもりなら、こっちは遠慮しない。躊躇する七代に「選ばないんなら全部買うぞ」と片っ端から燈治は商品をカゴへ入れていく。「ちょ、ちょっと壇!?」「言ったろ。お前はもうちょっと食べるべきだってよ」「だからってそんな無茶は……! ああ、もうわかりましたよ!」 このままでは余計に燈治の財布が痛手を負うと察したらしく、七代が折れた。燈治の手からカゴを奪い「選びますから無茶はやめてください!」と入れられた商品を元の場所へ戻していく。「分かればいいんだ」 多少強引な行動が功を奏し、燈治はご満悦な笑みを浮かべた。「全く……無茶苦茶なことをして……」 むくれる七代に「お前の為を思って言ってるんだ」と燈治は相棒の頭を軽く叩く。「ほら、早く選べよ」 これからもきちんと食べさせないとな。妙な使命感を持ち始めた燈治は、渋々商品を選ぶ七代を見てそう思った。断ってこい 下校時刻になり、帰ろうとした七代のズボンから軽快な音楽が流れた。「あ」と七代がズボンのポケットに手を突っ込み、携帯電話を取り出す。「どうした?」 後ろの席で帰り支度を済ませた燈治が尋ねると七代は「義王からメールきました」と着信主の名前を告げた。「鬼丸だぁ?」 出てきた名前に燈治は顔を露骨にしかめた。あまり歓迎したくない存在だ。 鬼印盗賊団の頭である鬼丸義王は呪言花札を巡り、七代と幾度も対峙してきた。だが紆余曲折の後に和解し、仲間になったまではいい。しかし義王はやけに七代と行動を共に取りたがり、彼に対する執着を見せ始めている。 恐らくはこっちと同じ想いを七代に抱いているのだろう。一度七代の隣を陣取った時、勝ち誇りしたり顔をした義王は、見ていて燈治の神経を逆撫でした。いつだって七代の隣に立っているのは自分でありたいのに。「で、何だって?」 机から身を乗り出し、苛立ちも隠さず燈治は尋ねる。眉根を寄せながら七代はメールを読み進め「……今から寇聖に来い、だそうです」とため息混じりに答えた。 こちらの都合も考えない身勝手さに、燈治は腹を立てる。「今から来いだぁ? 勝手なこと言いやがって」「どうしましょう……」「断れ」 戸惑う七代に、燈治は言い切った。どうせまた七代を独占したいが故のわがままだ。そんなものに七代がつきあう筋も道理もない。「だけど断ったらまた御霧の眼鏡が壊されるんですけど……」「そんなのいつものことだろ。いいからほっとけ」「ほっとく訳にはいきません!」 すげない言い方に、七代がむっとして燈治を振り返った。「眼鏡だってただじゃないんですよ。高いんですよ。どんどん壊されたら御霧だってたまったもんじゃないですか。近眼だって強いのに……。決めました」 開きっぱなしだった携帯を操作して、七代はメールの返信を書き出す。「おれ、義王のところにいきます」「おい」 それじゃ奴の思うつぼだ。燈治は反論しかけ、ぎっと七代に睨まれてしまった。「勘違いしないでください。今回は義王にお説教しにいくんですから。ものは大事にしないといけないってちゃんと言い聞かせないとクセになっちゃいますから」「……わかったよ」 七代は一度こうと決めたら考えを曲げない。これは無理に行かせまいとすると余計に怒らせてしまう。燈治は仕方なく引いた。「だけど、俺も一緒についていくからな」 みすみす七代を狙っている奴の元へ一人で行かせてたまるか。面倒くさいことはとっとと終わらせるに限る。「よっし、そうと決まればとっとと行くか」と七代の返事も聞かず、彼の背中を叩いて行動を促した。抱きしめろ 校舎の壁に沿って校庭を歩いていた燈治の真上から「だーんっ!」と声が聞こえた。反射的に空を仰ぐと、二階の窓から身を乗り出して七代が手を振っている。かと思えば、突然窓の桟に足を乗せた。「おまっ」 慌てる燈治に七代は笑い「抱き止めてくださいね! ――そりゃ」と宙に身体を踊らせ、飛び降りる。「――っ!」 落ちてくる身体を燈治は伸ばした両腕で受け止めた。ずん、とのし掛かる重みを膝を曲げて衝撃を和らげ、負担なく受け入れる。「ふふふ、壇ならやってくれると信じてましたよ」 横抱きの格好で七代は笑い、燈治の首に腕を回す。首筋にもたれ胸にすり寄る頭に、燈治は無言で七代を降ろした。身体が離れ、不思議そうに首を傾げる七代の頭へ固めた拳を振り降ろす。 ごん、と鈍い音がして「あたっ」と七代は頭を押さえ、後ろへ一歩よろめいた。「な、何するんですか」「いきなり飛び出してきて危ねえだろ! 受け止められなかったらどうするつもりだったんだ」 二階でも十分な高さだ。下手をすれば骨折だってあり得る。「お前一人の身体じゃないんだしよ……。怪我したら心配する奴が大勢いるんだ。そこらへん、もうちょっと自覚してくれ」「……ごめんなさい」 軽率だった行動に、七代は肩を落として謝った。しょげている表情に「わかればそれでいいんだ」と燈治は柔らかく笑う。さっき頭を叩いたばかりの拳を緩め、今度は優しく七代の額を小突く。「行こうぜ。今日は花園神社の洞だろ」 言いながら歩き出す燈治を「あっ、待ってくださいって!」と七代が追いかける。急ぐ足音を聞きながら、全くこいつといると忙しくってしょうがねえ、と思う燈治の口元はそれを楽しむように笑っていた。これを見ろ 体育に備えて体操服に着替えるため、女子が隣の教室へと移動する。じゃあね、と手を振って同じように出ていった弥紀を見送り、七代も着替え始めた。「今日の体育は何でしょうねー」「野球だろ」と後ろで学ランを脱いだ燈治が言った。「それは壇の希望じゃないですか。壇は本当野球大好きっ子ですねえ」 体育だけは絶対にさぼらず喜々として参加する燈治に、七代は苦笑を漏らす。まだ体育で野球をするかどうかすらわからないのにあのはしゃぎよう。まるで子供みたいだ。 でも七代も体育は嫌いではない。嬉しそうな燈治の表情を見ているだけで幸せな気分になれるから。 スクールベストを脱いで机に置く。もたもたしながらカッターシャツのボタンを外していると「まだか?」とすでに着替え終わった燈治が七代の前に回り込んだ。そして視線が七代の腹部に向けられる。「……お前、ちゃんと食ってるのか?」「はい?」 ジャージを手に取った七代が「やだなぁ、食べてますよ」と答える。うまい棒とかですけども。そう心の中で付け加える。バカ正直に答えたときには燈治からのお叱りを受けること間違いなしだ。「本当かよ」 案の定燈治は疑う。腕を伸ばし、七代の肌がむき出しになった腰を掴み腹を揉んだ。「うひゃっ!?」「っち。ぜんぜん肉ついてねえじゃねえか、肉。これ見ろよ、薄すぎるだろ」「じ、自分の身体ですからわかってますよ。ってか……そんな触らないでって……ふわっ」 わき腹に触れる燈治の手の感触がくすぐったい。七代は身を捩って「もう止めてくださいってばぁ!」と空気を読まない不謹慎な手を叩く。「あぁ?」と睨みつけ燈治に、頬をほんのり上気させ「周り! 周りを見てくださいって!」と七代は言った。 周囲で着替えていた男子生徒たちがこちらを一斉に注視している。二人のやりとりに、教室が水を打ったような静けさになっていた。中には七代の上擦った声に頬が赤くなっているのもいた。「っ」 目立ちすぎてしまった状況に、燈治は手を離す。解放され、はあっと息を吐いた七代は「もう……触るんだったら二人きりの時にしてくださいよ」と言い、着替えを続行する。 七代の発言を受け、同級生たちがざわついた。二人の関係を探るように、また視線が集中する。 お前らには関係ねえ。好奇の視線を睨みつけて抑え込み、燈治は「さっさと着替えろよ」と七代を急かした。 七代との時間を誰にも邪魔されたくなかったから。一緒に来い ある休日。燈治は意外な人物から呼び出しを受けて新宿駅まで来ていた。 待ち合わせ場所は西口。到着した燈治は壁際でぼんやりと雑踏を眺める姿を見つけ「雉明!」声をかける。 声に気づいた雉明が、燈治を振り向いた。心なしか、元気がないようだ。「急に呼び出して、すまない」 顔を合わせるなり神妙な表情で謝る雉明に「いや、構わねえけどよ」と燈治は首を振った。「でもいきなりどうしたんだ? 千馗にも知らせずに来てほしい、なんてよ。もしかしてお前、千馗に何も言わずここまで来たのか」「……ああ」 冗談半分でした質問に頷かれ、燈治は眉を跳ね上げる。雉明が七代に黙って出てくるなんて。 雉明は羽鳥家に七代、白ともども居候している。元々呪言花札の番人である雉明は、最後の主でもある七代をとても大切にしていた。何をするにも七代を一番に考え、行動する。だから今回の行動は珍しい。「マジかよ……。そこまでして、一体何の用事なんだ?」「……この前、誕生日を祝ってもらった」 ぽつりと雉明が呟いた。脈絡ない話の飛びに「お、おう」と燈治は目を丸くする。「初めてのことでとても嬉しかった……。千馗も贈り物してくれて」「そ、そりゃあよかったな……」 燈治はこっそり物憂い溜息を吐いた。こっちは誕生日にプレゼント、とかしてもらったことがない。まだ七代と共にその日を迎えたことがないのだから仕方ないけども、やはり羨ましく思ってしまう。「おれも七代の誕生日を同じように祝いたいから、聞いてみたんだ。そうしたら千馗もおれと同じ誕生日だったみたいで……」 言葉を区切り、雉明は睫を伏せる。落ち込んだ様子に燈治は察した。「要はせっかく千馗の誕生日だってのに、何も贈れないのが悔しいんだな」「……そう、だと思う…………」「アイツもなあ……前もって言っておきゃいいのによ」 後頭部を一つ掻いて、燈治は鴉羽神社の方向を睨んだ。七代は肝心なときに自己主張をしてくれない。彼の誕生日を祝いたい人間は沢山いるだろうに。同時にこんな機会に七代の誕生日を知ってしまった燈治もまた歯噛みする。聞かなかったこっちも落ち度はあるが。「千馗は贈りたい気持ちだけで十分に嬉しい、と言ってくれたけど。おれはやっぱり千馗に贈り物をしたい。だけど、おれはまだ千馗の好きなものが何かわからないから」 雉明が燈治の目をまっすぐ見て請う。「一緒に来てくれないだろうか。――千馗への贈り物を選んでほしい。壇なら千馗の好きなものをおれよりも知っているんだろうから、教えてほしい」「……なるほど。そりゃあ千馗と一緒に行けねえよな」 燈治はにっと笑った。「わかったつきあってやるよ。その代わりあげたときの奴の反応、ちゃんと教えてくれよ?」「わかった」 真面目に頷く雉明に燈治は笑って「楽しみにしてるぜ」とその肩を叩く。そして「じゃあ早速行くか!」と促し二人は雑踏へと足を踏み入れた。明日つき合え ベッドに寝転がっていた燈治は、起きあがって端に座り直す。おろした踵で床を突きながら、掌に収まっていた携帯のフリップを開いた。 画面を注視する燈治の親指がボタンに触れては離れていく。ボタンを一つ押せば、七代との通話が繋がるがこれからする会話のやりとりを思うと、寸前で躊躇してしまう。 だけど、迷い続けていたら目標が達成できない。ぐじぐじ悩むのは男らしくねえ。意を決し、燈治は通話ボタンを押す。 耳に当てた携帯の受信部から呼び出し音が流れ、程なく「壇?」と七代の声が聞こえた。二日と聞かない日はないのに、どうしてかとても緊張する。「どうかしたんですか?」「いや、大した用じゃねえけど」 思っていることとは裏腹な言葉が口を出た。いや、実際些細なのかもしれないが、燈治からすればかなり重大なことだ。 上擦りそうになる声を低くするよう努め「明日お前暇かなって思ってよ」と言った。何のつもりもない、至って普通に聞こえるように。「明日ですか? 暇ですけど」 対して七代はのんびりした、いつもの調子で答えた。その後ろには白がいるらしい。誰と話しておるのじゃ、と尋ねる声がする。 見物客がいるような感じに、燈治は本題を出す前に怯む。しかし、ここで引いたらまた同じことをする時に引っ込み癖がついてしまう。「あー、その、なんだ」 曖昧に言葉を濁し、ゆっくり深呼吸をする。「明日お前が暇だったら、どっか連れてってやろうかと、思ってるんだが。ほら、言ったろ? お前をいろんな所に連れてってやるって。……だから、明日つき合えよ」 深く吸った息を吐き出すついでに、ようやく言いたかったことが言えた。面と向かっていたら気楽に言えるのに、電話越しだと何故か緊張してしまう。電話だと、相手の反応が表情からうかがえないから。思いついたのが学校だったなら、すぐに七代の腕を引いて直で聞けただろう。 しかし七代の反応はやっぱり変わらなくって。「え? もしかしてデートのお誘いですか!?」 電話越しでも息巻いている様子が伝わる。 即座に「行きます!」と色よい返事を貰え、身体の力が抜けてしまった。「よっしゃ。じゃあ行きたい場所考えとけよ。こっちでもいくつか選んでおくから」「はい!」 いくつか軽いやりとりをし、通話を切る。電話越しでも伝わるはしゃぎように燈治は分かりやすい奴だな、と笑みを堪えながら携帯を閉じた。 だけどやっぱこれからは、直に聞くようにするか。やっぱりアイツの反応は直接見たいから。そう思いながら燈治は七代を連れていく場所はどこにしようか考えることにした。 七代のはしゃぐ姿を想像する燈治の心はすでに明日へと飛び、自然と頬は緩んでいた。覚えてろ 珍しく立場が逆になった。燈治は欄干に凭れて屋上の景色を眺める七代を見つけた。ぼんやりとしている背中は動かない。「よぉ」と声をかけ近寄ると、ぴくりと肩を上げた七代がこちらを向いた。いきなり呼ばれた目が丸くなる。「壇」「羽鳥先生、驚いてたぜ。まさかお前が現国サボるなんてよ」「おれだってそういう気分の時ぐらいありますよ」 溜息混じりに言い、七代は顔を前に戻す。近付いて隣に立った燈治は、頬杖を突く横顔の物憂さに眉を潜める。 うまい言葉が思い浮かばず黙ったまま冬の風に吹かれた。こんな時自分の口下手がもどかしくなる。「……すいません」 七代が頬杖を外して身体ごと燈治に向き合った。「八つ当たりしてしまいました?」「八つ当たり?」「モヤモヤしているからってそれを人にぶつけるのは違いますよね」 苦笑する七代の表情は、常日頃見せている芒洋とした柔らかさが欠けていた。それを埋めるように寂しさが表情に映る。「本当に、どうでもいいことなんですよ。取るに足らないことなので……。後でちゃんと羽鳥先生にも謝ってきますから。だから」 もうちょっとだけたそがれさせてください。苦笑いのまま七代は言った。暗に一人にさせてほしい、と言葉に滲ませている。 覚えのある感情が燈治の胸によぎる。七代が転校した当初は、屋上にやってきた彼をそれとなく教室に戻らせるよう促していた。七代をきらっているわけではない。ただ近くに誰かがいることが煩わしくて。 相棒を自負していても、まだ七代と出会ってから一ヶ月と半分しか経っていない。心の内側の踏み込めない部分もあるのだと認識し、複雑な心境になった。 ここで無理をしても傷つけてしまうだろう。燈治は「わかった。でもあんまり長居すんなよ」と一度七代の肩をぽんと叩いた。そのまま頭を小さく撫で離れる。「それから覚えておけよお前には俺がいる。もっと頼って……くれよ」 七代が小さく頷く。名残惜しさを感じつつ、燈治は校舎へ戻った。 扉を潜り、後ろを振り向く。再びぼんやり景色を眺める七代に、今度の休憩時間も会いに行こうと燈治は強く思った。いい加減休め「戻ってきましたー」 暢気な声とは裏腹にふらつく足取りをした七代が、ドッグタグの扉を潜った。 彼の足音に店の隅で寝そべっていたドッグタグの看板犬が、すぐさま起きて駆け寄る。足にじゃれて出迎えられ七代は微笑み「ただいま、カナエさん」と腰を屈めてカナエさんの頭を撫でた。 すぐに身体を起こした七代はカナエさんを伴い「マスター、お願いします」とカウンター席に就く。洗った食器を拭き磨いていた澁川は静かにカップを流し台に置き、静かに頷く。「……まだやるつもりかよ」 今日四度目になるやりとりを、燈治はテーブル席から苦々しい顔で見ていた。とっくに食べ終わって空になったカレー皿を脇に置き、椅子にもたれて腕組みをする。 澁川と話し込む七代の横顔は疲労しているように見えた。当たり前だ。ここ最近ずっと洞に潜ってはクエストを休む間もなくこなし続けている。このままでは倒れるのも時間の問題だ。ただでさえ身体が細いのに。 燈治は席を立ち、新たな依頼を選んでいる七代の隣へ乱暴に座りなおした。カウンターへ腕を伸ばし「今日はこの辺でやめとけ」と置かれていた依頼リストを取り上げる。「あっ、何するんですか」 仕事を奪われ七代は抗議した。だが燈治も引かず「根詰めてぶっ倒れたら元も子もねーだろ」と言い返し、リストを澁川に戻す。 澁川は何も言わず、リストを受け取った。黙っているが、澁川も七代の体調をおもんばかっているんだろう。 どうして自分の価値を七代は自覚しないのか。ほら、ここにも心配してくれる人がいるのに。「お金が足りない今ががんばり時なんですって」「それでも駄目だ。いい加減休め」「任務にも差し支えますし」「俺が同行すれば百人力だろ」「でも……」 しかし頑として七代は首を縦に振らない。燈治は苛々し始める。俺だって、マスターだって心配している。穂坂や飛坂や、倒れたらお前のことを心配する奴がたくさんいる。それなのに、どうしてそこまで無理をするんだ。 何より――一人で全部抱え込もうとしている性根が気に食わない。 ならばこっちも強引に事を進めさせてもらおう。「いいから休め」 燈治は立ち上がり、七代の肩を掴んだ。引っ張られ目を白黒させる七代に「送ってってやるから今日は帰るぞ」と返事も聞かず店を出る。「ちょ、まって、おれはまだ――」「いいから帰っぞ!」「……気をつけてな」 隻眼を柔和に細め、騒がしくドアを潜る二人を澁川は見送る。きゅうんと鼻を鳴らし寂しそうなカナエさんを見下ろして「今度来たときは何か栄養のつくものを七代に出すか……」と呟いた。好物を作れ「で……、何でいきなり台所なんですか?」 後ろからどんどん腰を押されて台所に入った七代は、困り顔で振り返った。「決まっておろう」 七代をここまで連れてきた張本人――白が両手を腰に当て、当たり前のように言い放つ。「妾のために何か美味いものを作るのじゃ!」「ええー」 一方的な物言いに呆然とした七代に「最近零には焼きそばパンを作って、妾には何もくれぬのか?」と白は口を尖らせ睨み上げる。 白の言うとおり、七代は雉明に焼きそばパンを作って渡していた。しかし最近と言うには少し時が経ちすぎている。「それに白にだってしゅわしゅわな奴あげたでしょう? この前だってうまい棒あげたじゃないですか」 あげた回数、頻度共に白の方が高い。そう指摘したら「それは其方の手作りではないではないか」と頬を膨らませた。「妾は其方の手作りを食したいのじゃ。ええい、つべこべ言わずさっさと作らぬか!」 顔を真っ赤にさせる白に七代は察した。要は雉明にやきもちを焼いているらしい。雉明だけ手作りを食べられたのがそんなに悔しかったのか。そう考えると何だか白がとてもかわいらしく思える。「もう、しょうがないですねー。もうすぐ夕ご飯ですし簡単なものだったら作りますよ」「本当か!? なら妾はここで待っていよう」 ぱっと顔を輝かせ、白はキッチンテーブルの席に着いた。「いや……居間かおれの部屋で待っててもいいんですよ?」「ここでいいのじゃ。ほれ、早く作らぬか」 裾の余った足を椅子の上からぶらつかせ、白は急かす。そんなに待ちきれないのかな。七代は軽く肩を竦め冷蔵庫を開ける。後で清司郎さんに材料を使ったって言っておかなきゃ。中にある物を眺めつつ、ふと七代はあることに気づいた。「食べたい物は何ですか?」 いったん冷蔵庫を閉め、七代は白に尋ねた。適当な物を作ったら、それこそ怒られてしまいそうだ。 わくわくと七代の挙動を見ていた白は、いきなり尋ねられ目を丸くする。「何がか、じゃと?」「作れる作れないかは別としてリクエストは聞いておかないとでしょ?」「そうじゃな……」 扇子を唇に当て、白は明後日の方向を見遣り考える。そして思いついたようで視線を七代に向け、閉じた扇で自分の掌を軽く叩く。「千馗、其方の好物がよい」「へ? おれの?」 七代は自分を指さして首を捻った。白のために作るものがおれの好物でいいんだろうか。 白が頷く。「其方の好物がよいのじゃ。妾は以前其方のことを知ろうとは思わなんだ。正当な血筋の主が故にな。……だが今になって其方を主と認めた妾は千馗のことをあまり知らぬことに気づいてしもうた。だから今から知りたいと思う」「白……」 初めて出会ったときは封札師風情が、と手厳しさばかり見てきたのに。確かに白との間に絆を感じ、思わず七代の頬が綻んだ。「何じゃその顔は。いいからはよう作れ!」 微笑まれ、照れ隠しで白は怒鳴る。つんとそっぽを向いて拗ねてしまった声に七代は「はいはい、かしこまりました」と恭しく頭を垂れ、冷蔵庫を開けた。 せっかく白がおれの好物を知りたいと言ってくれたのだから、とびきり美味しく作ろう。背中に視線を受け、七代は再び冷蔵庫を開け材料を吟味した。少しは怒れ ドッグタグのテーブル席で燈治は、一目見れば分かるほどに苛々していた。せっかく頼んだカレーライスを味わう余裕もなく、小刻みに震える手でスプーンを握りしめている。 ここには当然のごとく七代と共に来た。本来なら彼との楽しい一時を過ごせるはずだったのに、どうしてどこかしら邪魔が入るんだろう。燈治は真向かいを――正確にはその右を睨みつける。「……どうして人参ばかり入れてるんですか?」 燈治と同じく頼んでいたカレーライスを食べながら、七代は皿の端に増えていく人参を眺めて尋ねた。「決まってるだろ。オレ様が食いたくねえからだ!」 器用に人参だけを次々に七代の皿へと移し、鬼丸義王が胸を張った。親指で己の胸元を指さすが、矛らしく口から出た言葉は全く自慢にならないことだった。「好き嫌いしたら大きくなれませんよ。――しょうがないなあ」 七代は困り顔で笑うがそれだけで、押しつけられた人参を口に運ぶ。義王を甘やかす七代に、甘やかすとつけあがるぞソイツはよ、と燈治は、露骨に顔をしかめた。 苦虫を噛みつぶした表情に義王が、ふふん、と鼻で燈治を笑った。七代に世話を焼いてもらっているのに、一周の優越感を持っているのか。燈治の苛々が更に増し、スプーンを置く。こんな状況でカレーを食べたって美味しくない。「……おい千馗。いい加減少しは怒れ」 大げさにため息を吐いた燈治に対して人参を飲み込んだ七代が「はい? 何をですか?」と七代と小首を傾げる。これが本気でとぼけているのだから始末が悪い。募る苛立ちから、指先でテーブルをこつこつ叩く。「義王にだよ」とはっきりと燈治は言った。「何大人しくソイツの苦手なもん食ってんだよ。お前がびしっと言わねえといつまで経ってもちょっかい出されるぜ。それでもいいのかよ」「んんー。別に困ってはないですけど……」「だとよ、鈍牛」 勝ち誇ったように七代の言葉尻に義王が乗る。七代へ身体を傾け、肩に腕を回して引き寄せた。 もう我慢の限界だ。 燈治は椅子を乱暴に引いて立ち上がった。「いい加減にしろよ。千馗が甘やかしてるからってなぁ、図に乗ってんじゃねえよ」「はっ、ひがんでんじゃねーぞ。羨ましいならテメエもやってみろってんだ」「ぁあ!?」 剣呑な視線が絡み合う。もうそろそろ、七代はテメエのモノじゃねえと分からせる必要がありそうだ。これ以上余計なちょっかいを出される前に。燈治は固めた拳を掌に叩きつける。 挑む目つきに、義王も七代から手を離し立ち上がった。 一触即発の空気に七代は食べる手を止め、困ったように燈治と義王を交互に見遣る。どうしよう。これは止めなきゃやばいかな。しかし「こっちにおいで、千馗君」と空気を読まない涼やかな声がカウンターから、腰を浮かしかけた七代を呼び止めた。 絢人がにこやかに手招きをしている。「いがみ合っている場所だと、せっかくのマスターの料理も味が台無しじゃないかな。こっちで美味しく食べた方がいいだろう?」「……でも、止めた方が」「放っておけ」 絢人とは対角線状のカウンター席に座っていた御霧が、ため息混じりに眼鏡を押し上げる。燈治たちの方は見向きもせず、関わりたくない空気を醸し出していた。「どうせ止めたところで余計に状況が悪くなるだけだ。なら、一度徹底的に放置して様子をうかがうべきだろう」「おや、意見があったね」 微笑む絢人に御霧は「嬉しくない」と眉間に皺を寄せた。「でも鹿島の言うとおりだよ。ここは僕がフレンチトーストをおごるからこっちにおいで」「二人がそこまで言うなら……」 七代は食べ途中だったカレーライスを持って、音を立てずにカウンターへ移動する。取り合いの元凶がいなくなったのにも気づかず、燈治と義王はにらみ合ったままだった。毛布に入れろ 燈治が眠っていると、ふと寒い空気が体温で暖められた布団に侵入した。忍び寄る冷たさは、否応なしに燈治の意識を心地よい睡眠から持ち上げる。せっかく気持ちよく眠っていたのに。眠気のせいもあって不機嫌さを隠さず眉間に皺を寄せ、瞼を開ける。「……今日は何もしないとか言ってなかったか?」 眠気を隠さず言えば「はい、今日は何もしませんしさせませんよ」と肯定しつつ、七代が捲りあげた毛布の端から寝間着でベッドに潜り込んだ。甘えるように絡む足は裸足で床を歩いたせいかひんやりと冷たい。 七代はベッドで寝るのが苦手だ。ばねの感触が、どうも睡眠を阻害するらしい。だからいつもは燈治が使うベッドのすぐ横に布団を敷いて眠る。ただ一つの例外が、肌を重ねて抱き合う時だけだ。その結果、七代が進んでベッドにはいるのは性交を誘う意味合いを持っている。 しかし今日は互いに疲れているし、七代は封札師の仕事があるからしない、と夕食時に宣言していた。それに反するような行動を取る七代に横臥の状態から抱きつかれ燈治は困惑していた。「じゃあどういうつもりだよ」 それでも七代がベッドから落ちないよう身をずらす燈治に、彼は微笑んで「だって今日は寒いじゃないですか」と肩を頬ですり寄った。「一人で寝るよりもあったかいと思うんですけどね。燈治さん、体温高いし」「そういうお前は手足が冷たくなってんな……」 燈治にひっつく七代の手足はひんやりしている。ついさっきまで外気に触れていたせいもあるが、もともと彼は平熱が高いのに珍しいこともあるものだ。 ったく、しょうがねえな。元々面倒見がよい燈治は形ばかりの嘆息を短く吐き出した。寝返りを打って七代と向き合う形になり、腕を背に回して冷えた身体を抱きしめる。 同じ石鹸を使っているのに、七代の匂いは甘く、下腹部にきそうだ。しかし七代は燈治の胸元に手をすがらせ、あっと言う間に眠ってしまう。こっちの気も知らないで。 こりゃ、生殺しだろ。今度は本気のため息を吐き、それでも燈治は七代の身体を離そうとしない。せっかくだからこっちもこいつを抱き枕にしてやろう。せっかく何もしないで温めてやってんだ。これぐらい安いだろう。 腕に力を入れ、更に身体を密着させた燈治は胸一杯七代の匂いを吸って瞼を閉じた。たぶん、眠れるのには時間がかかるだろうけど。つれてけ 今日は一人で探索しようと決め準備を終えた七代は、羽鳥家の自室を出た。ナップサックを片肩に担ぎ、「洞に行ってきますね」と台所の清司郎に声をかける。清司郎は振り向きもせず「夕飯までには帰ってこい」と素っ気なさを含んだ声で七代を送り出した。 鳥居を潜ったところで七代は携帯を開いて仲間を呼ぶ。しかし携帯は制服のポケットにしまったまま、今日は使うつもりもない。 皆が頼りないわけではない。ただ本来封札師は単独での任務を遂行していく。呪言花札の件が片づいても、これから七代には様々な任務が命じられるだろう。その時一人では何もできないと言う無様を犯したくない。もっと強くなって皆を守りたい気持ちも含まれている。 今日の目的地は春の洞だ。その前にドッグタグへ寄って、依頼を受けよう。予定を組み立て歩く足が、ある姿を往来で見つけ立ち止まった。 向こうも七代を見つけたらしく。軽く「よぉ」と手を挙げて歩いてきた。「……壇」「よ、奇遇だな。こんな所で会うなんてよ」「そう、ですね……」 タイミングが悪い。七代は己の不運を嘆いた。よりにもよって一番やっかいな相手に見つかってしまった。 歯切れの悪さに「どうした?」と燈治が尋ねた。「なんか、マズいって顔してるな」「べ、別にそんなことないですよ」 笑顔を繕ってごまかす。この場をどうにかしのいで、燈治に悟られないようにしないと。 しかしタイミングの悪さがここに来て重なった。七代が背負うサックを目敏く見つけ「もしかして……これから洞に行くつもりか?」と燈治が眉を潜める。 マズい。燈治のことだから、探索に向かうと知れたら絶対に着いていくと言い出すだろう。「違いますって!」 七代は焦りから強い口調で首を振った。それがさらに疑いを持たれるとは知らず。「そうやってムキになるってことは行くんだな」 確信した燈治は「ったく嘘がつけない奴だよ、お前は」と片手を腰に添え、苦笑いした。あっさりとごまかしが失敗し、七代は「別に一人でも大丈夫ですから」と拗ねて燈治から顔を背ける。「へぇ、この前落とし穴に落ちかけたのにか? ああ、依頼の達成方法がわからなくて右往左往してたりもしてたな」「だーかーら、それも華麗にバッチリ解決! しちゃうんですし!」「……ふーん、言ったな」 左手で一度顎をさすって「じゃあ俺がついてって、それが本当かどうか見届けてやるよ」と口角をあげて笑った。「よーし、ばっちり証明しちゃうんですか……ら…………って、あ」 しまった。七代は己の失敗を悟った。売り言葉に買い言葉で結局燈治の同行を許す形になってしまった。「しまったぁあああ!!」 丸め込まれてしまい頭を抱える七代に、燈治は勝者の余裕を持ってその肩を叩く。「じゃ、決まったとこで行くか。――つれてけよ」 口調の軽さと反し、肩に乗せた手は七代を逃さないように力が込められていた。そいつと話すな 未だにらみ合う燈治と義王から離れた七代は、招かれるまま絢人の右隣へ腰を落ち着けた。迷わず席を選んだ七代に、御霧が無言で眼鏡を押し上げる。レンズの向こう側では、怜悧な視線が警戒するように絢人を捕らえていた。 しかし絢人は唇をたわめて笑い、それを受け流す。そして「相変わらず賑やかだね、君の周りは」と七代に笑みを向け澁川にフレンチトーストを注文する。「……わかった」と頷き調理にかかる澁川を見て「え、本当にいいんですか?」と七代は困惑気味で絢人に尋ねる。「奢ってもらうなんて……」「いいよ。これは僕が勝手にしたことだしね。節約してるんだろう? だけど粗食ばかりじゃ君の身体が保たないと思うんだけど」「でも……」 絢人の言うとおり節約はしている。しかしそれを他人に使わせてまで遂行したくない。困惑し頷けないままの七代に、絢人は優しく笑うと「ならこうしようか」と提案した。「少しばかり僕の話し相手になってくれないか?」「話し相手?」「君の話はとても興味深いものが多い。それに貴重な情報が手に入るまたとない機会だ。それらの価値を考えると、君に奢る金額なんて些細なものだよ」「待て」と御霧が話に割り込み、席を立った。「ならば俺も混ぜてもらおうか」 七代の左隣に座る御霧に「じゃあ鹿島も七代に何か奢らないと」と肩を軽く竦める。「……致し方あるまい」「え? ええ?」 あっさり了承した御霧に、七代は困惑の色を濃くした。同じ情報屋として御霧は絢人を苦手に感じているはずだ。素直に言うことを聞くとは思わなかった。「千馗。好きなものを選べ。どうせなら後で食べれるようなものにしてもいいぞ」 メニューを押しつけられ、どうしよう、と七代は困る。おれは二人を満足させられるような話題なんてないのに。「おい、テメェら」 すると今度は後ろから剣呑な声が飛んでくる。振り向いた先に怒りを隠さない燈治が立っていた。「よってたかって千馗を困らせてんじゃねえよ」「それは心外だな」 燈治に睨まれても絢人は涼しい表情のままだ。「壇だって千馗君を困らせているじゃないか。少しは時と場所を考えるべきだと僕は思うけどね」「不本意だが、俺も香ノ巣と同意見だ」 同じ情報屋として敵対心を持っている御霧は、渋々と頷き呆れ気味に燈治を振り返る。「……大体義王はどこに行ったんだ?」「アイツならさっき出ていったぜ。これから春の洞で勝負だ」 血気盛んに言う燈治に「飽きませんねえ」と七代が呆気に取られた。「馬鹿の一つ覚えだな」 御霧が鼻で笑い、そして絢人は「まあ、そういうところは君たちの美徳でもあるよね。ちっとも羨ましくないけど」と棘のある言葉を向ける。二人のすげない反応に「言ってろ」と燈治は鼻を鳴らした。「なあ千馗、ソイツらと話してねえで審判頼むぜ」「ええ? またですか?」 燈治と義王の勝負が始まればかなりの確率で七代が審判にされてしまう。他の誰かがやるよりもお前がやる方が互いにまだ納得できる。そう二人に言われているが、正直七代は振り回されていた。 だけど、燈治と義王だと嫌がっても連行されるのが関の山。それになんだかんだ言っても、例え振り回されても、それを楽しんでしまう時点で七代には断る理由がなかった。「……しょうがないですねえ。マスター、フレンチトーストはもうできてますか?」「持って洞で食べれるように包んでやろう」 意を汲んだ澁川が言い「ありがとうございます」と七代はキッチンに向かって礼を述べた。まだ少し残っていたカレーを急いで食べ、グラスの水をあおぐ。「絢人、ごめんなさい」「いいよ。それも君らしいと僕は思うからね。気をつけて」「はい!」 マスターからフレンチトーストの包みを受け取り、カレーライスの代金を支払った七代は、燈治と共にドッグタグを走って出ていった。賑やかだった店内が一気に静まり、澁川が「……静かなのも落ち着かなくなったな」と小さく微笑む。「全くアイツ等は……馬鹿の集団だな」 また面倒事を、と舌打ちする御霧に絢人は笑う。「だったら、彼らの――千馗君の仲間である僕たちも馬鹿だね」「お前みたいな変態と一緒にするな!!」 一くくりにされる屈辱に怒鳴った御霧は、苛々しながら開いたパソコンのキーボードを乱暴に叩いた。感想を言え シャワーを浴びた燈治は台所の冷蔵庫から取り出したペットボトル二本を手に、自室へ戻った。まだ正午を回ったばかりで日は高いが、カーテンが閉められた室内は薄暗い。床には脱ぎ散らかされた二人分の服。僅かに漂う青臭い匂いが情事の後を物語っていた。 後で換気しておかなきゃな、と思いながら燈治はベッドの縁に腰を下ろす。「――千馗」 毛布にくるまっている恋人の名前を呼んだ。すると、んん、と眠そうな声がして、もぞりと頭が動く。眠そうな眼が燈治を映した。「飲みもん持ってきた。汗かいてるし飲んどけよ」「……ん」「どっち飲むんだ?」と燈治はお茶とスポーツドリンクのラベルが見えるように持っていたペットボトルを七代に差し出す。七代は腕を伸ばしてお茶のペットボトルを取った。肘を突いて上体を起こす七代の肩から、毛布が滑り落ちる。露わになった肌。首筋はもちろん、腕や胸――臍の近くやその下にも赤い鬱血の痕が刻まれていた。その全部を俺がつけたんだよな、と思うと燈治は気恥ずかしくなる。 ペットボトルを開ける振りをして目を反らした。これ以上見ていたら、せっかくシャワーで流した汗をまた掻く羽目になりそうだ。 後ろで七代がペットボトルに口をつけた。余程喉が渇いていたのか、あっと言う間に中身は半分以上減っていった。ふぅ、と一息つき「ありがとうございます」と燈治に礼を言った。さっきまでさんざん喘がせていたせいか、潤った喉でも少し声が掠れている。「身体……平気か?」 口に含んでいたスポーツドリンクを飲み、肩越しに七代を見て燈治が尋ねた。改めて見ても、七代の身体は所有欲独占欲まるだしの印がたくさん刻まれている。加減しなければと思いながら、途中で歯止めが利かなくなって。どれだけがっついてんだと燈治は自身の余裕なさを嘲る。「あ……だ、大丈夫、ですよ」 調子を訊かれ自分の身体を見遣った七代は、頬をさっと朱に染めて答えた。「ちょっとだけその痛いところも、ありますけど。全然平気ですし」「そ、そうか。でももうちょっと寝とけよ。どうせ今日は……泊まるんだし、よ」「そう、です、ね。そうします」 ありがとう、と空になったペットボトルを燈治に手渡し、七代は横になった。毛布をごそごそと肩まで引き上げ、じっと燈治を見上げる。何か聞きたそうな目つきに「どうした?」と燈治は七代の方へ座りなおして尋ねた。「えっと、……あの」と七代はもじもじと視線をさまよわせ、やや躊躇いがちに言った。「おれ、どうでした?」「は?」「その……おれ結構がりがりですし、抱き心地よくないだろうし……気持ちよかったのかなーって……」 どうやらセックスの相手としてどうだったか、感想を求められているようだった。 燈治はがりと頭を掻いて嘆息する。まさかそう聞かれるとは思ってなかった。ついさっきまでさんざん喘がせて揺さぶって――それでも心配になるなんて。 返ってきた反応を、否定的に捉えた七代の顔色がさっと曇る。だから燈治は手っとり早く分かりやすい方法を取った。 七代がもぐっている毛布を掴み、捲り上げる。露わになった痩身に刻まれた赤い痕の一つを指で押し「もうちょっとつけときゃよかったか?」と言った。肘を突き、七代の胸元へ唇を寄せ肌に吸いつく。微かな痛みと共に新たな痕を刻む。んっ、と震える七代に、また腹の奥底から引きかけていた熱が、あっと言う間に温度を上げて身体に回る。 ベッドに乗り上げ、燈治は七代に覆い被さった。また汗を掻いてもシャワーで流せしまえば済む問題だ。今はこの鈍い恋人にこっちがどれだけ溺れているか、示す必要がある。「どうせ泊まるんだし、いっそ枯れるまでヤるか?」 見下ろされ瞬きをする七代に「そうなってもいいぐらいお前とヤりたいんだよ」と少し早口で言う。言葉にするのは恥ずかしかったが、それでも七代が「……そうですか」と笑ってくれたので良しとしよう。 七代が燈治に向けて腕を伸ばした。燈治は彼の肌に触れ、お前じゃなきゃ駄目だと言わんばかりに再びその身体に溺れる。 しばらく戻れそうにないな。口の端でくっと笑い、燈治は次に痕を刻む場所を探した。枕になれ ノックをしても返事がなかったので、燈治は七代の部屋に入った。今日は封札師の仕事も大学もないから家でのんびりしていると言っていたのに。 燈治の疑問はすぐに解決した。先日買ったばかりの画集を開いたまま、七代は眠りこけていたからだ。こちらのノックに気づかない訳だ。「……ったく、しょうがねえなあ」 小さく唇をたわめ、燈治は足音を忍ばせ背を丸めて眠っている七代の傍に座った。余程疲れていたのか、七代は規則正しく寝息を立て、深い眠りについている。 さてどうするか、と燈治は考える。七代を探していたのは暇ならどこかで外食でもと誘おうとしていただけなので、さしたる問題ではない。日頃封札師と大学生の二足の草鞋をしている七代の眠りを邪魔する気など、燈治には毛頭無かった。だが固いフローリングの床で寝ると、身体を痛めてしまう。 彼の使う布団は燈治の部屋にある。そこまで横抱きで運んでしまってもいいが、起こしてしまう可能性を考えると少し躊躇した。 とりあえず開き癖がつかないよう、七代が読んでいた画集を閉じて卓に置いた。ぱたん、と小さな音に反応して七代の睫が震えて持ち上がる。「……んん?」「お、悪い。起こしちまったか」 肘を突いて上体を起こし、七代は眠い目を擦って謝る燈治を見上げた。まだ意識がはっきり覚醒してないらしくぼんやりしている。「でも寝るんだったらちゃんと布団で寝ろよ。風邪を引いてもしら――」 七代が燈治の腕を掴んだ。とろんと微睡んだ目を細め、ぐいぐい引っ張る。加減ない力に「お、おい」と燈治は七代の肩を押し返すが、一向に手は離れない。「千馗」と困る燈治に七代は「とうじさんもいっしょにねよ?」と小首を傾げてねだられた。舌足らずの甘えた声に燈治は返す言葉もなくなる。無意識状態でやっているから、質が悪い。「ねー、とーじさぁん」 戸惑う燈治に七代はなおも言った。これは従うまで離してくれそうにない。頭を一つ掻き、やれやれと嘆息する。「ちょっとだけだぞ?」 前置きし、燈治は七代と向かい合って横になった。七代は嬉しそうに燈治の胸にすり寄る。そして逞しい腕を枕にして、再び瞼を閉じた。「ったく……最初からそのつもりだったな」 燈治は苦笑した。あっと言う間に寝てしまった七代の髪の毛をもう片方の手で撫で、そのまま背中へ回す。 まあ、悪い気はしねえけどな。呟き、鼻先を七代の頭に寄せた燈治も目を閉じた。 七代の体温は心地よく、すぐ眠りに引き込まれる。 二人分の寝息が混じりあって、室内の空気に溶けて消えていった。さわるな 燈治は澁川から受け取ったコーヒーを「お待たせしました」と乱暴に絢人の前へ置いた。とってつけたような敬語。そして睨みつける顔は、とてもじゃないが喫茶店でバイトをしている人間にはあるまじき表情だ。 しかし絢人は涼しい顔で「ありがとう」とコーヒーを受け取る。余裕たっぷりの反応に燈治は不機嫌を募らせ顔をしかめる。 凍り付く温度を察し「え、ええと……」と七代は言葉を探しながら燈治と絢人を交互に見た。困ったように両手を首の後ろにやって「えっと……お、おれの注文したカレーはまだでしょうか」と苦し紛れに切り出す。「お、おなかがぺこぺこで。はやく食べたいなあーって思ってるんですけど?」「だ、そうだよ、壇。千馗君を待たせてどうするんだい。僕に喧嘩を売る暇があったら、注文をこなすべきじゃないかな。新米バイト君」「……ってめ」 燈治のトレイを持つ手が震える。このままじゃまずい。冷や汗をかく七代はどうしようと戸惑う。しかしキッチンから「壇」と澁川が燈治を呼んだ。 流石に澁川の呼び出しを無視できない燈治は「今行きます」とキッチンへ言い、そして絢人をぎっと睨みつけた。「あんまり千馗にべたべたさわんなよ。――千馗、この変態に何かされたらすぐ呼べ」 敵意をむき出しにして絢人を一睨みし、燈治はキッチンへと引っ込んだ。「……やれやれ。独占欲が強くて千馗君も大変だね」 絢人は肩を竦めて、運ばれてきたコーヒーを一口飲んだ。「あ、あはははははははは……。……なんかすいません」 燈治が絢人に対しつんけんな態度をとる理由の一端を担っている自覚のあった七代は、申し訳なさから小さく頭を下げた。つき合い初めて半年は経つが、未だに燈治は絢人や義王と顔を合わせては相手を牽制している態度を取る。燈治曰く「油断してるとどこでかっさらわれるかわかんねえからな」らしい。七代からすれば無用な心配なので呆れるしかなかった。おれがそんなに揺らぎやすい男だと思っているのか。「ふふ、僕は構わないよ。これぐらいのことで物怖じしていたら情報屋なんて出来ないからね」 恐縮して謝る七代に絢人は優しく笑いかけた。飲んでいたコーヒーをテーブルに戻し「それに壇は見ていて飽きないよ」と続ける。「飽きない……ですか……」「そう。例えば……」 絢人がそっと七代の頬へ手を伸ばした。にっこり笑う絢人に、七代の目がきょとんと丸くなった。いったい何をするつもりなんだろう。 のばされた指の先が七代に触れる寸前、すぐ近くでひゅっと音が耳を掠める。即座に絢人は手を引き、遅れてカレーライスがまたもや乱暴に置かれた。「ほらね。分かりやすい」「何がだよ。つーかテメエ千馗にさわんなって言っただろ」 面白がって笑う絢人を燈治が威嚇するように言った。からかわれていることも知らないで。「燈治さん……」 哀れさ半分で燈治を見上げ、七代はしょんぼり肩を落とす。「君たちは興味深いね」と笑う絢人と何故か落ち込む七代に、当事者だったはずの燈治は、一人状況を把握しそこね首を傾げた。 [0回]PR