もう少しだけ ペルソナ4 Memories of the world 2013年05月01日 長いので折り畳み 体温が掌に触れた。 どくりどくりとそこから伝わってくる脈動に触れていると、胸が苦しくなるのはどうしてだろう。 何かが軋む音が、掌の中からする。だけどそこに何があるのか確かめたくても、周りは影で埋め尽くされたように真っ暗だ。眼は開いているはずなのに、こちらからは自分の姿すら見えない。 遠くから、声が聞こえる。 センセイと呼ぶ悲痛な声。それに重なるくぐもった呻き声。ひゅう、と苦しそうな呼吸。 何が、起こってるんだ。 事態が飲み込めず狼狽えていると、掌に突然鋭い痛みが走った。その瞬間、真っ黒に覆われていた視界が突然開ける。 そして眼下に広がった光景に、自分の眼を疑った。「……かし……み……や……?」 伸ばされた自分の手が、日向の首を絞めていた。仰向けに倒れている彼の上に馬乗りになって、全体重を伸ばした手に掛けている。 首を締められ日向は、苦しさに呻きもがきながら、首を絞める手に爪を立てていた。口が、酸素を求めぱくついている。 俺は、なんてことを。 自分の仕出かしていることの恐ろしさに、ぞっとする。早く日向を解放しようと、力を込めていた手を解きかけた時、視界が開けた時同様、唐突に暗くなった。まるで、後ろから目隠しをされたみたいに。『――そこまでだ』 囁くような声が、耳の奥に響き渡る。『――まだ、こっちに来んじゃねえよ』 ほら、自分の居る場所に戻れ。 聞こえてくるその声に押し出され、がくりと糸が切れるように意識が遠のく。フィルターを通したかのように歪んでいるその声は、何故か自分のそれと全く同じだった。 嘲るような笑いが、遠く木霊する。「――っ!?」 掛けていた毛布を撥ね除け、陽介はばっと飛び起きた。静かなテントの中、乱れた呼吸が響く。まるで全力疾走した後のように心臓が早鐘を打っている。息切れしたように、苦しかった。 立てた膝に顔を埋め、呼吸を整える。さわさわと、テント越しから微かに聞こえる木の葉同士が擦れる音に、心地よく昂っていた気持ちが徐々に収まっていく。 呼吸が落ち着き、陽介は膝から埋めていた顔を上げ、薄暗闇の中自分の掌を広げて凝視した。何かすごく、嫌なものを見ていたような。「……ん」 ぼふり、と何かが陽介に当る。 右隣を見下ろすと、バリケード代わりの荷物と陽介に挟まれた場所で寝ていた日向が寒いのか、寝返りを打って擦りよってきていた。最初に当ててきたらしい左手が、陽介のジャージの裾を掴んでいる。 その身体に毛布は掛けられていない。陽介が飛び起きた時、一緒に日向の毛布も跳ね飛ばしたようだった。 二人分の毛布が、足の辺りで固まっている。 俺は抱き枕か。薄く笑いつつ、陽介はジャージを掴む日向の手を剥がし、腕を伸ばして毛布を手繰り寄せた。夜の山は寒いので風邪を引かないよう、日向にもちゃんと肩まで毛布を掛け直してやる。 いきなり千枝と雪子が押し掛け、最初は陽介と日向の二人だけだったテントは、四人の大所帯になり、流石に手狭だった。女子と男子の間にお互いが入り込まないよう、テントの中央にバリケードと称した荷物が、さらにスペースを狭くしている。しかし、清掃活動やら夜の騒動で誰もが疲れたのだろう。陽介が飛び起きても、誰も起きる気配を見せなかった。うなされるのを起こされて、心配されるよりはマシなのかもしれないけど。 小さく折り重なる寝息が聞こえるテント内を見回し、陽介は髪を無造作に掻いた。眠気と、夢見の悪かったらしい腑に落ちないような感覚が、ぐるぐると胸の奥で同居している。 夢を見ていた気がする。だけどそれがどんな内容か、頭に霞が掛かったように曖昧で、思い出せない。 とても、重要そうなものだと思うけど。 思い返そうとして、無駄だろ、と緩く首を振る。どんなものか分からないのに、思い出そうとしたって無理だろう。それに覚えていないなら、その夢はきっと大したものじゃない。 結論づけ、陽介は横になった。無意識に身体を寄せてくる日向をカバンの方へ押して転がし、十分なスペースを確保する。テントを立てている場所が悪いせいで、あまり外側によると坂を転がってしまうのだ。転がって外に出たところを見つかり停学だなんて、笑えない。 何度か寝返りを打ち、ようやく落ち着ける場所を見つけると、陽介は瞼を閉じる。 明日はちょっとした作戦を立てているんだから。しっかり寝て、成功させないと。 心の中で気合いを入れつつ、意識は緩やかに眠りの波へと落ちていく。 林間学校からの帰り道から一言も発しない日向の背中を見ながら、陽介は大きな欠伸をした。寝心地が良いとは言えないテントで一晩を過ごし、朝早くから女子のテントで気絶した完二を日向と二人で見つからないよう運んだ重労働のお陰で、無駄に疲れが溜っている。 それに、昨日はロクなものを食べていない。口腔に残っている刺すようなぴりぴりとした刺激。一口しか食べていないのに、この威力。いかに昨日口に入れたカレーと言う名の物体Xが凄まじいものか、実感させられた。表現しようのない味をと触感を思い出すだけで吐き気が蘇り、眉を顰め唇を咄嗟に手で押さえる。「あーあ、ロクでもない林間学校だったな。まっずいもん食わされるわ、停学の危機に陥りかけるわ、滝つぼに突き落とされるわ……」「……大部分はアンタのせいだろ」 来年は絶対サボってやる、と嘯く陽介の後ろから、濡れた足音と共に恨めしい声がする。振り向けば、全身濡れ鼠の男が冷えた自分の身体を抱きしめ、大きなくしゃみをしたところだった。「うわっ。きったねーな完二。くしゃみする時はちゃんと口を手で押さえろよ」 慌ててくしゃみを避け、陽介は身体ごと後ろを向きながら歩く。「うっせーな! だいたい滝つぼに突き落とされたのは、アンタが余計なことを言うからだろ!」 巽完二はぶん、と空を切るように腕を払い、拳を握りしめる。人を寄せつけないナイフのような視線を、鋭く陽介に突き刺した。「自分から天城先輩らに水着着させるように仕向けといて、まだまだなんて言うなんて、バカじゃねえのか! つうかバカだろ!!」 オレは被害者で、巻き込まれたんだ! 完二の怒号に陽介は耳を塞ぎ、聞かないふりをする。 実はあながち完二の言っていることは間違いではない。 不味い料理を食べさせた詫びと、停学覚悟で女子のテントに帰れない千枝と雪子を匿った恩。その二つを盾にして、陽介はジュネスで予め買っておいた水着を着るよう強要した。 そうでなくても、山の清掃活動と聞いてやる気がぐんと減った林間学校に、陽介がわざわざ参加したのは、そんな目論見があったからだ。 水着に着替えさせるまでは成功したが、そこからが悪かった。着替えてきた千枝たちの水着姿に陽介はつい、言わなくていいことを言ってはいけない時に口に出してしまった。『もちっと大人になったら見ごたえあるんだろうけど。今はまだまだだよなぁ』 案の定、千枝たちは機嫌を損ねた。青筋立てて怒り、陽介を――ついでに同意を求められた日向も突き落とし、続いて完二までもその後を追う。 突き落とされた滝つぼの水は肌を刺すような冷たさで、震え上がりそうだった。「つか、お前が落ちたの自業自得じゃね?」 完二は水着姿の千枝たちについて言及していない。だが、興奮したのか鼻血を出してしまい、驚いた雪子によって突き落とされてしまっている。「ううう、うっせえ!」 図星を刺され、完二は真っ赤になって怒鳴った。意外に純情だった強面の後輩に肩を竦め、陽介は進行方向へと向き直る。「それにこっちだって、あんなもの食わされたんだ。ちょっとぐらいの失言ぐらい流してほしいもんだよ」「……こいつ殴りてぇ」 完二が物騒なことを呟く。 晴れた空には似つかわしくない、二人を中心に険悪な空気が立ち篭め始めた。「二人ともいい加減にしろ」 黙ったままだった日向が、二人を振り向かずに言った。「もう済んだことをぐだぐだ言っても仕方ない」「でも先輩、この人が……」「うっせ、お前だって……」 窘める日向に構わず、さらに陽介と完二は言い募ろうとする。互いを貶めようと開いた口は、静かな口調の一言で抑え込まれた。「いいから大人しくする」 静かな迫力で睨む日向の形相は、かつて暴走族を潰した伝説を持つ完二さえ怖じけづけさせる。思わず、こええ、と縮こまって呟く完二に、そこだけは同感だ、と陽介も内心頷いた。 日向の一睨みで、借りてきた猫のように二人は大人しくなり、黙って彼の後に続く。逆らったら恐ろしい眼にあうと、本能が告げていたから。『ダチだろ? その、俺ら』 そう自分から恥ずかしい公言をした後、少しずつ陽介と日向は一緒にいる時間が増えていった。学校だけでなく放課後、そしてテレビの中。二日と顔を会わせない日はない。 まだ口数は少ないし、無愛想な表情をすることも多い日向だが、それでも以前より彼について理解出来ていると思う。 例えば、今みたいに怒らせると札付きの不良だと恐れられている完二を、びびらせるほどに怖くなるだとか。菜々子が好物なのか、たまに作ってくる弁当の殆どは、和食で構成されているだとか。 昨日も意外に寝つきが良いと判明した。固い土の上に建てられたテントは、いくら布団があるからと言って、寝心地が良くない。だが、日向はおやすみ、と横になった後、ものの数分で容易く眠ってしまっているのに気づき、驚いたものだった。 まだ出会って二ヵ月と少し。 日向の隣は心地よい、と陽介は思うようになっていた。 初っ端から一番みっともないところを見られ、素を晒してしまったせいか、自分を偽る必要もなく、気を遣わなくてもいい。 呼吸が楽になる。ジュネスの店長の息子だからと色眼鏡で見られる視線や、商店街から向けられるやっかみ。溜っていく日頃の鬱屈など、日向といる時は忘れてしまえた。自分のままでいられる。 陽介と完二を黙らせた後、再び黙々と歩いていた日向は、ふと立ち止まり二人に向き直った。陽介たちも足を止め、怪訝に日向を見る。「橿宮?」「二人とも家に寄ってけ」 この先の交差点を曲り、そのまままっすぐ歩けば、堂島家はすぐそこだ。日向はすぐ近くまで見えた家を振り返り、すぐ視線を完二に戻す。「特に完二。そのままで帰って、またお母さんを心配させる気か?」「オ、オレは別に……」 完二は口籠って俯いた。なんでそこまで、と口をもごもごさせて呟く。それを聞き、日向の視線が厳しくなった。「この前も失踪して、心配かけたばかりだろう」 躊躇する完二の手を日向は掴んだ。そのまま「いいから来る」と眼を丸くした完二の手を引き、有無を言わさず家に向かって連れていく。 意外に頑固だよなぁ。怖いものなしと言うか。引きずられる完二の姿に、陽介は苦笑する。こうなっては稲羽一恐れられている不良も形なしだ。 そう言えば、久しぶりにここに来るな。だんだんと近くなる堂島家を見て、陽介はぼんやり思う。初めて来た時は、まだ日向のことを苦手だと思っていて、とても緊張していた。 逃げようとする完二を離さないまま、ただいま、と日向が引き戸を開ける。「おかえりなさい!」 聞こえてきた音に、兄の帰りを待ちわびていた菜々子が笑顔で奥から走ってくる。しかし、日向に腕を捕まれ連行されている形の完二と、苦笑混じりの陽介の姿に驚いたのか、廊下の途中で立ち止まってしまった。「ただいま、菜々子」 日向は、あのな、とずぶ濡れの完二を見た。「すぐでごめんけど、お風呂溜めてくれないか? このお兄ちゃんが風邪ひかないようにしたいんだ」 と言って、日向は完二を指差す。「えっ?」 菜々子は眼を丸くして、完二の方を見た。足元から頭の天辺まで濡れている姿をじっと見つめ状況を理解したのだろう、「わかった」と頷き、小走りで浴室へと姿を消す。「バスタオル取ってくる」 ようやく完二を掴んだままの腕を離し、日向は靴を脱ぐと、玄関に上がる。そしてすかさず完二に指を突き付け、反論を許さない口調で言った。「完二はそのまま待機。花村は上がって居間で待ってて」「おう。じゃあ、お邪魔しまーす」 日向の後に続いて家に上がる陽介の背後、そこまでしなくたっていいのによ、とぼやくような完二の呟きが聞こえる。こっそり見てみると、落ち着きなく視線を彷徨わせながら、バツが悪そうに所在なく首の後ろを掻いている。戸惑いと照れが混じりあったような顔をして落ち着かないようだった。 完二は今まで他人を恐れ拒絶し、近づかせないよう自分を悪く見せていた。雪子に続いてテレビに放り込まれた完二が作り出した場所で彼の影は切実に、自分を理解してほしい受け入れてほしい、と叫んでいた。 そして、無事に生還し正に望んでいるものがそばにいる現状に、こそばゆさを感じているんだろう。日向も菜々子も、見掛けで他人を判断したりしないから。 居間に通された陽介は、とりあえず卓の近くに座った。落ち着きなく辺りを見回し、居間と続いている台所で眼を止める。いつもあそこに立って、夕食とか弁当とか作ってんのかな、と調理をしている日向の姿を思い浮かべて、思わず笑みが零れた。割烹着とか、似合いそうだ。 ふと、玄関の辺りが騒がしくなる。完二のぎゃあぎゃあ喚く声に、何をやってるんだアイツらは、と陽介は眉を潜めた。 気になるのか、後ろを振り返りつつ風呂の準備を済ませたらしい菜々子が居間に戻ってくる。相変わらず綺麗に二つ結ばれた髪をピンクのリボンと一緒に揺らしながら、陽介を見て「こんにちは」と丁寧に頭を下げる。ゴールデンウィークで一緒に遊んだお陰で、最初はぎこちなかった菜々子も、陽介に対して笑顔を見せてくれるようになっていた。「こんにちは、菜々子ちゃん」 挨拶を返しながら、「今日も可愛いねー」と陽介は誉める。すると途端に菜々子の頬は赤くなって、ぶんぶんと頭を強く振って否定した。「な、菜々子、かわいくないよ……」 恥ずかしがる様子が可愛くて、陽介は微笑ましくなる。「いや、嘘言ってないし俺」「……花村。菜々子が困ってる」 呆れたように言いながら、日向がやってきた。いつの間にか、玄関の方は静かになっている。完二の声も聞こえない。「お兄ちゃん」 やってきた日向の後ろに、菜々子が隠れた。ぎゅっとジャージの裾を握りしめ、赤い頬のまま、後ろから窺うように陽介を見ている。「ほら、困らせた」「ごめんって」 こっちとしては、本当のことを言っただけのつもりだったんだけど。肩を竦めながら「完二は?」と日向に尋ねる。「湯が溜ってきたから、風呂場に放り込んできた」 そして日向は、隠れたままの菜々子の頭を優しく撫でる。「ありがとう菜々子。俺がいない間、大丈夫だった?」「うん。菜々子ちゃんと留守番してたよ」「そっか、えらいな」「うんっ」 褒められて、菜々子はとても嬉しそうに笑った。そして、座って座ってと居間へ日向の腕を引き、林間学校で何があったのかと、話をせがむ。 これがつい二ヵ月前までは会話もロクになかった二人だとは、誰も思わないだろう。菜々子が初めて日向をお兄ちゃん、と呼んだ日から二人はどんどん仲良くなり、兄妹と呼んでも差し支えない関係を築き上げている。 二人のやりとりは、見ているものの心を癒してくれるようだ。いつもは無愛想な顔が多い日向も、菜々子の前だけでは、柔らかくて優しい笑顔を惜し気もなく見せる。 そんな日向の笑顔が、陽介はとても好きだと思う。「あ、そうだ。花村」 菜々子との会話に花を咲かせていた日向が、不意に陽介を見る。「お前、完二の後に風呂入れ」「え、俺も?」 きょとんとして、指先で自分の鼻を差した。冷たい滝つぼに落とされたのは陽介も同じだが、着替えのない完二とは違い、上がってすぐ身体を乾かしたし服だって濡れていない。風邪をひく心配もないだろう。「……いいから、入れ」 言葉を切り、ふっと日向は遠い眼をした。「洗い流したいものがあるだろう。色々」「……?」 含みを持った言い方に、陽介は首を傾げる。「――諸岡の」 思い出すのも嫌だと言わんばかりに、日向が学校中で嫌われている担任の名前を低い声で呟いた。出された名前に、陽介もまた思い出してしまう。滝つぼに突き落とされた時、上流から聞こえてきた呻き声を。 ぞわっと寒気に似たおぞましい感覚が、背中から首へと這い上がった。思わず、小刻みに震えた自分の身体を抱きしめる。「……入っていい?」「完二があがったら行ってこい」 俺も後で入るつもりだ。 そう力なく顳かみを押さえる日向につられて陽介も落ち込む。重くなった雰囲気に、ひとり訳を知らない菜々子が、不思議そうに首を傾げた。 日向の言葉に甘え、完二の後風呂を借りた陽介は、居間に戻るなりしてきたいい匂いに、鼻をひくつかせた。食欲を刺激する匂いは、空きっ腹には応え、思わず鳴った腹を押さえる。 居間では、日向から借りた服を着た完二と、菜々子が卓を囲み、一緒に昼食をとっていた。つけられたテレビからは、クイズ番組が流れ、出題される問題に菜々子が考えながらスプーンを動かしていた。「あがった?」 食事を取らず、ぼんやりとテレビを見ていた日向が、風呂上がりの陽介に気づいて顔をあげる。「おう、ありがとな」「随分長かったな」「そりゃあお前。……最後まで言わせるなよ」 諸岡のことを思い出すだけで、震えが蘇りそうだ。それを察しているらしく、日向も突っ込んだことは言わず「ご飯食べる?」と話を反らす。「……カレーだけど」「またピンポイントで……」 昨日それで随分酷い眼にあったことを、忘れてないだろうか。カレーと言う言葉を聞いてげんなりする陽介に、「仕方ないだろう」と日向が言い繕う。「前もって作り置きしておいたのが残ってたんだから。俺だって、ああなるとは思わなかった」 もう思い出したくもないのか、首を軽く振りながら「で、食べるのか?」と尋ねた。「食わないんスか? このカレーめっちゃうまいっスよ」「お兄ちゃんのカレーおいしいよ」 答えに詰まった陽介に、黙々と食べていた完二とテレビを見ていた菜々子が同時に言った。完二はともかく、菜々子のきらきらした眼で言われてしまうと、断れない。 おいしいのは保証済みだろう。風呂からあがった時に感じたあの匂いは正しくカレーそのものだったし、日向が菜々子に対して不味いものを出すとは到底思えない。不味いものを出すぐらいなら捨てそうな気がする。「……じゃあ、頼んでいいか?」「うん」「あ、先輩。オレもおかわりお願いしていいっスか?」 遠慮の欠片もなく、完二が空になった皿を差し出しおかわりを請求する。うん、と皿を受け取りながら、日向は席を立つ。台所に向かう日向を、ごちそうさまでした、と行儀よく手を合わせた菜々子が自分の食器を持って、追い掛けた。「橿宮先輩って、あんな顔も出来るんスね」 そのまま並んで台所に立って、一緒に片づけやカレーの準備をする二人を見て、完二がふと言った。「最初、何考えてんのか分からねーような面ばっかりしてっから、笑ったりとかしないんじゃねえかって思ってたんスけど」 そうだろ。無愛想だったりすんのは本当だけど、笑うとすげえいい顔するんだぜ。それを最初に知ったのは俺だけど。 そう思うと、優越感に浸れる。日向のことになると、何故か陽介も自分のことのように嬉しくなれた。 この前の中間テストで日向が十番以内に入った時もそうだ。もし他の人間がそうだったら感じていただろう悔しさや嫉妬は微塵もなく、寧ろ誇らしさで胸が一杯になる。 こんな奴が俺のダチで、相棒だなんて。なんてすごいんだろう!「……なんで、アンタがそんな得意そうなんだ?」 しまらない笑みを浮かべる陽介を見た完二が、気持ち悪そうに後ずさった。明らかに引かれているが、陽介の笑みは一層深みを増すばかりだ。「え、そうかぁ? 別にいつもどうりだけどな!」「ニヤニヤしてて気持ち悪いっスよ……」「どうした完二」 二人分のカレーを両手に日向が戻って来た。怯える完二を見て、首を傾げる。「先輩……。何かこの人変なんスよ」 完二は不躾に陽介を指差す。「いきなりニヤニヤしだして。変なもんでも食ったんスか」「……まぁ」 曖昧に濁して言及を避けつつ、日向は完二に大盛りのカレーを手渡した。そして、不安そうに陽介に聞く。「やっぱり無理しなくていいぞ。記憶ぶり返すのも嫌だろう?」「食うに決まってんじゃん! 腹減ってるし」 まだ口はぴりぴりと痺れが残っているけど。やはり空腹には勝てない。 陽介は、目の前に置かれたカレーをさっそくスプーンに掬って食べてみた。「お兄ちゃんのカレー、すごくおいしいよね」 陽介の斜向かいに座った日向の隣に、ちょこんと腰を下ろした菜々子が尋ねる。陽介は口に運んだカレーを飲み込んで、ああ、と頷いた。「すっげー、うまい。菜々子ちゃんが羨ましいぜ。いつでもこんなのが食えるんだからなー」 ちょっとした羨望が混じる陽介の言葉に、菜々子は嬉しそうに笑った。 まともでおいしい昼食を終えた後、菜々子も交えて遊んだ時間は、あっという間に過ぎていった。帰る頃には陽は傾き、流れる雲の合間から見える空は赤くなっている。 玄関先で日向と菜々子に見送られ、堂島家を後にした陽介は、晴れ晴れとした表情をしていた。林間学校での散々な仕打ちで受けた精神的苦痛も、大分和らいでいた。癒しとは、ああいう時間のことを差すんだろう。「なんか、やっと報われたような気がするな。なっ!」 充足感で胸が一杯になった気持ちをぶつけるように、陽介は完二の背中を加減せずばんばん叩く。いきなりの衝撃に、前によろめいた完二は「いってえな」と背中に手を回して、陽介を睨む。「つーか、殆どアンタが諸悪の根源だろ。調子乗んなよ」「あーもー、水差すなよ!」 今はもう少し、この気分に浸っていたいんだから。『――ああ、そのまましばらく呑気に浸ってろよ』 道の真ん中に立ち、赤く禍々しい空を見上げる。にやりと口元を上げて笑いながら、見渡す辺りはすべてシャッターがしまっていた。『そして、自分の無力さを思い知れ。お前は特別でもなんでもない人間だってこと』 今ごろ呑気に笑っているだろう相手に向けて、侮蔑に歪んだ黄色の眼を細める。『……そんな人間に対して、お前はどんな理由をつけてくれるんだろうな』 ――なぁ、日向? 日向の名前を噛み締めるように呟き、踵を返す。 ゆっくりとその姿は、影へ溶けるように消えていった。 [0回]PR