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室内デート




 怠い。疲れた。
 今ベッドに倒れたら、数秒でマジ寝れる。
 もはや疲労と眠気は極限に達していた。バイトを終え、夜道を歩く陽介の足取りは、とても危なかっしい。瞼は重く、気を多少なり抜いてしまったらすぐ落ちてしまいそうだ。
 もはや歩けるのすら奇跡に近い状態。陽介はそれほど疲れきっていた。眠い眠い、とひたすら頭のなかで呟き、帰路を行く。自分の息子だからって、あの親父は人使いが荒いんじゃないか。
 人手が足りないから、と急なシフトを組まされ、一アルバイトにしては責任の重みが違う仕事をさせられ――それが数日続いて。だが父親も息子に酷な仕事をさせているのに罪悪感があったらしい。明日の日曜はまる一日休みにしてくれた。当たり前だ。もしこれで明日も仕事、なんて言われたらいい加減キレてる。
 ジュネスから近い場所にある家に、陽介は時間を掛けてようやく帰った。おざなりに靴を脱ぎ捨て、自室に入る。
 もう着替えるのすら億劫だった。メッセンジャーバッグを床に落とし、学ランを脱ぐ。ローテーブルに足をぶつけつつ、待ち望んでいたベッドに倒れ込んだ。
 疲れ切った身体を受け止め、ベッドのスプリングがぎし、と軋む。みるみる意識が無意識の海に沈んで行くのが分かった。
 だけど、完全に途切れてしまう前にやらなければならないことがある。陽介はズボンのポケットから携帯を取り出した。
 明日の休み、久しぶりにデートしようと日向と約束している。朝一番に映画を見る予定を立てたので、早い時間に目覚ましをかけないと。
 眠気で引っ付きそうな瞼を必死に持ち上げ、フリップを開く。メニュー画面から、アラームの設定画面まで進み――。
 記憶はそこでぷっつりと、途絶えた。



「……ん」
 うるさく鳴る音が耳を刺激する。
 陽介は瞼を閉じたまま手探りし、音の元である携帯を掴んだ。電源ボタンを押して音を切り、ベッドに投げ出す。せっかく人が気持ちよく寝てたのに。
 陽介は傍らの毛布を引き寄せて抱きしめた。深く息を吐き出し身体の力を抜く。意識はまだまどろんで。もうちょっと眠っていたい。
「………………」
 また眠りかけた陽介はふと思った。そう言えば、俺、目覚まし何時にかけたっけ。そもそも、目覚ましセットしたか?
「…………」
 つーか、さっきの音って本当に目覚まし?
「……」
 陽介は携帯のフリップを開いた。重たい瞼を無理矢理こじ開け、まずアラーム設定画面を出す。
「!?」
 ――設定されてなかった。
 ざっと血の気が下がり、さっきまで陽介を捕らえて離さなかった眠気が波のように引いていく。さっきの音はアラームじゃない。着信音なら、俺に電話をかけたのは。
 画面に表示されている時刻を、恐る恐る確認する。
 午前十時。日向と約束していた時間は、とっくに過ぎていた。
「やっべ!」
 抱きしめていた毛布を跳ね飛ばし、陽介は起き上がる隙さえ惜しんで、着歴を確かめる。違っていてほしいと思いながらも、ボタンを押す手が震えていた。
 こう言う時の嫌な予感は当たってほしくないのに、よく当たる。
 画面にしっかりはっきり残っている――橿宮日向の名前。やっちった、と陽介は俯せになって言葉にならない呻きを漏らした。待ちぼうけ喰らってる恋人からの連絡切るとか、なにヤバいフラグ立ててんの俺?
 せめてアラームをちゃんとセットするまで起きていられたら。後悔する陽介は、このまま消えてしまいたくなる。だけど、今はそれよりもしなきゃいけないことがある。
 俯せていた身体を起こした。まずはとにかく電話。怒ってるに違いない橿宮に会って謝らなきゃ。
 陽介は携帯を操作し、出しっぱなしにしている着歴から、日向の番号を表示した。一つ深呼吸をし、思い切って通話ボタンを押す。
 耳に当てた携帯から聞こえる呼び出し音は中々途切れず、これは本気で怒らせたか、と青ざめる。せっかくのデート。最近滅多に出掛けなかったから楽しみだ、と言っていたのに。
「……」
 ようやく繋がったけど、向こうの声は聞こえない。無言の静けさが、日向の怒りを物語っているようだ。
「か、橿宮! ゴメン!」
 陽介は謝って頭を下げた。相手に見えてなくても、そうしなければいけない気持ちになっている。
「謝ってすむ問題じゃないけど、ホントごめん! 今すぐそっち行くから――」
「いい」
 端的な返答。素っ気なさが混じった声音に、陽介は奈落へ突き落とされたような衝撃を受けた。不覚にも、涙が混みあがりそう。自業自得なのに。
「橿宮――」
「後ろ」
「へ?」
「後ろ、向いて」
 後ろがなんなんだろう。不思議がりながら、言われるまま陽介が後ろを振り向いた。
 ドアが開く。待ちぼうけ喰らわせてる筈の日向が、無遠慮に室内へ足を踏み入れた。真っすぐベッドに進み、陽介の前で止まる。
 怒られる。つい後ずさる陽介を追いかけ、日向の手が伸びた。陽介の鼻を摘んで持ち上げ、その指先に力が篭る。
「いって! ちょ、何!?」
「これぐらいで済むんだから安いもんだろう」
 男前が台なしだな。呟く声に、陽介は目を瞬かせる。
 待ち合わせの場所で待ちぼうけを喰らっているとばかり思っていた日向が、目の前にいた。通話が繋がったまの携帯を切ってしまい、寝起きの陽介を見下ろしている。
「お、おま……。何で?」
「お前が起きる随分前から、俺は家にお邪魔させてもらっていたが」
 陽介の鼻を摘んでいた指を離し、日向は呆然とする陽介の隣に腰を下ろした。二人分の重さに、ベッドが沈む。
「おかしいと思ったんだ。遅れるなら遅れるって連絡を入れるはずなのに、今日に限ってない。携帯に電話しても出ないし――」
「短時間でここまで来たのか?」
 一方的に陽介が電話を切ったのは、つい数分前だ。待ち合わせ場所は八十稲羽駅。陽介の家からは鮫川を挟んだ向こう側で、どんなに急いでも十分はかかる。
 日向は「そんな訳ない」と首を振った。
「さっきの電話より前にも一度、俺は電話してるんだ。そうしたらいくら待っても繋がらないし。来てみれば陽介のお母さんがまだ陽介寝てるのよって言うし」
「じゃあどうして起こしてくれなかったんだよ」
「あんなに気持ちよさそうに寝てるのに、起こせるか」
 鼻を摘んでいた手をまた持ち上げ、今度はくしゃりと跳ねた前髪を撫でられた。もう日向の表情に怒りはない。穏やかに口元を上げて、微笑んでいる。
「疲れてるなら疲れているって言え」
「だって二人ででかけんの久しぶりだって、橿宮言ってたし……」
 約束をした時の笑顔が忘れられなくて、当日を陽介も楽しみにしていた。なのに……。
 自分の失敗にしょげた陽介を「出かけるのはまた今度にしよう」と日向が告げた。
「えっ?」
「あんなに気持ち良く寝てるの見たら出かける気がなくなった。今日陽介は家で休め。寝ろ。今陽介に必要なのは睡眠だ」
 前髪を撫でていた手に額を押し当てられ、そのままベッドに倒される。立ち上がって跳ね飛ばした毛布を拾い、寝かされた身体にかけられた。
 陽介は肘を突いて、上体を軽く起こし日向を見た。
「出掛けねーの? デートはどうすんだよ」
「これも立派なデートじゃないか。室内デート」
 確かにデートはデートだけど……。それじゃ楽しくないんじゃ。
 不服そうに眉を寄せる陽介を「俺と二人きりじゃダメか?」と日向が首を傾げる。ちっくしょ、可愛く見えるのは俺の欲目か? 絆されるじゃねーか。
「ダメじゃないけど……」
 渋々白旗を上げた陽介に、日向はそれでよし、と笑ってみせた。ぽんぽん、と掛けた毛布の上から子供を寝かしつけるように身体を叩く。
「とりあえず、もう少し寝とけ。そしたら、ご飯作るから一緒に食べよう」
 優しい声に、消えかかっていた眠気がじわじわ陽介の意識を侵食する。やっぱ疲れてたんだ。今更のように認識した。
「本当、ゴメン。今度はちゃんと……するから……」
 途切れがちになる言葉を聞き、日向は頷く。
 耳元で「分かったから、今はおやすみ」と日向の声が囁く。その声に誘われ、陽介は瞼を閉じ、眠りにつく。

「俺はお前と居られるならなんだっていいんだけどな……」

 意識が途切れる寸前。そんな日向の呟きが聞こえたような気がした。

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