深夜一時三十三分 壇主 東京鬼祓師 2013年04月29日 ※エンディング後同棲設定です 深夜。 台所に立っていた燈治は、戸棚からインスタントコーヒーを取り出した。流し台に置いていたマグカップにスプーンでそれを掬い入れる。砂糖とミルクは後で七代が自分の好みに合わせて加えるだろう。 燈治は視線を風呂場に向けた。聞こえる水音は、七代が使っているシャワーの音。どうやらまだ後始末をしているらしい。絶えず聞こえてくる音にのぼせなきゃいいけどな、と燈治は心配する。 セックスの後、燈治は一度だけ風呂を共にしたことがあった。身体がだるいと頻りに嘆く七代が少しでも楽になれば、と後始末を手伝ったが、それきり事後の入浴に誘われなくなった。 ――燈治さんの場合、後始末って言うよりもっと散らかしているようなもんですよ。 その時七代に言われたことを思いだし、燈治は渋い顔をする。 最初から、しようとは思ってなかった。ただ身体の内側に残る性交の残滓を取り除いてやりたい。出してしまったのは自分なのだと、思っていたが。 掻き出すときの指の動きや、中に進入する湯の感触に反応する七代は艶めいていて。白く濁った水と共に、なけなしだった燈治の理性もあっけなく流された。 七代からすれば、セックスの後の風呂を拒否するのは当然の結果なんだろう。だが、長く風呂にこもっていられると、それはそれで逆上せたんじゃないかと心配になる。 ポットの湯が沸いたら、様子を見に行くか。湯を沸かすポットを見つめる燈治の横で不意に「燈治さん?」と声がする。 タオル一枚の七代が、燈治の横に立っていた。もう一枚のタオルを、濡れた頭に被せ「どうしたんですか、ぼおっとして」と言った。「…………お前な」 首筋や胸、腹部につけられた鬱血の痕を惜しげもなく晒す七代に、燈治はがっくりと肩を落とした。 燈治は首を傾げる七代の額を力の加減もせずに弾く。頭が仰け反り、七代は「いきなりなにするんですか」と弾かれた部分が赤くなった額を押さえて抗議する。「いいからとっとと着替えてこい!」「燈治さんのイジメっこー」 クローゼットがある隣の寝室をびっと指さす燈治に、七代は文句を垂れながら扉を開けて引っ込んでいった。 アイツの基準がわからない。溜め息を吐いて燈治は思う。情事やその後の風呂ではとにかく恥ずかしがっていたのに、今みたいな風呂上がりでは平気で人に裸を晒す。 一度、腹を据えて話し合ってみる必要があるかもしれない。そう考えながら、燈治は仕事を終えたポットを傾け、マグカップに湯を注いだ。 インスタントコーヒーの香りが台所に漂う。「あ、コーヒー」 Tシャツに短パンの出で立ちで戻ってきた七代は、鼻をひくひくさせて燈治の隣に立った。「今日は?」「風呂上がりはやっぱりコーヒー牛乳ですよね」 笑顔で答えた七代に「へーへー」と燈治は冷蔵庫から牛乳を出した。牛乳で割るには注いだ湯の量が多く、燈治は仕方なしにもう一つマグカップを出して、こぼさないよう半分に分ける。 できあがったコーヒー牛乳を差しだそうとして、ようやく燈治は七代の着ているTシャツの柄に目がいった。「……おい」「はい?」「俺の記憶が確かなら、それは俺のTシャツじゃないか?」「燈治さんのTシャツですよ?」 あっさり七代は認める。「だって、探すの面倒だから、すぐそこにあった燈治さんのTシャツをお借りしました!」「汗くせえぞ、それ」 七代が拝借したのは、燈治が今日一日着ていて性交の時脱ぎ捨てたシャツだ。当然綺麗ではない。しかし七代は首を振って「燈治さんならいいんです!」となぜか自慢たっぷりに胸を反らす。「変態くさいな、それ。……ま、お前がいいならいいけどな」 ほらよ、と燈治は二つあるマグカップの片割れを七代に渡した。もう片方を自分の右手に持って、電気ポットのコンセントを抜く。「で、どこで飲むんだ?」「ご飯食べる部屋でまったりしてればいいんじゃないですか。どうせベッドは使えないんですし」「……後で布団敷くか」 明日は洗濯が大変だな、と燈治は思いながら寝室とはまた別の部屋に続く扉を開けた。 中身をこぼさないようマグカップを両手で持っていた七代が燈治を振り返って言った。「この時間、映画やってるんですけど、見ます?」「その前に天気予報を見てからな」と燈治が答え、部屋の扉を閉めた。 [0回]PR
焼ける夕暮 壇主 東京鬼祓師 2013年04月29日 ※激情を指で描くの続きっぽく。 燈治の思っていた通り、七代は美術室にいた。やはり、いつもと同じ場所、室内の片隅でスケッチブックを広げ、鉛筆を走らせている。 時折七代は、そこで部活の真似事をしている。もし任務とかなかったら、美術部に入ってたんですけどねえ、と話半分に言っていたことがある。だけど、封札師として来ているのだからそんな暇などないと、七代はしたかっただろう美術部への入部を見送っていた。 だけど、七代の中では多少の後悔が残ってたのだろう。たまに美術室に来ては一人静かに絵を描いている。 燈治が美術室の後ろから中に足を踏み入れても、七代は気づきもしない。スケッチブックのほうに集中しているようだった。 何を描いているんだろう。燈治はふと気になった。 一度スケッチブックを見せてもらったことはある。その時は七代からの目を通したモノがどんな風に映るのか、絵を通じて共有できることがとても嬉しかった。 だけど、それ以降七代が描いた絵を燈治に見せることはなくなった。見せてくれよ、と燈治から頼んでみても、七代はただ「だめですって」とスケッチブックを抱えて首を振るだけで。 だから燈治の中にちょっとした悪戯心が芽生えた。真正面から頼んでも駄目ならば、後ろからそっと覗いてしまえばいい。 燈治は息を潜め、足音を殺して七代の後ろへと歩いた。七代は携帯の画面に表示したものをスケッチしているらしい。左手で携帯とスケッチブックを同時に持ち、丁寧に線を描いていく。 あと一歩前に踏み出せば七代にぶつかる距離まで近づき、燈治はそっと彼の肩越しにスケッチブックを覗いた。覗き見は悪いことだとわかっている。だけど、そこまで七代が頑なになるほど見せたくないものを見てみたい、そんな欲求が勝ってしまった。「……」 燈治は絶句した。お前、と叫びそうになる口を掌で押さえ、息を大きく飲む。 スケッチブックに描かれていたのは、燈治の姿だった。いつの間に盗み撮りしていたのか、屋上で寝ているときの格好をそれはもう丁寧に描いている。見ているこっちが、恥ずかしくなるぐらいに。 七代がスケッチブックを見せたがらない訳が判明し、燈治は不意打ちを食らった気分になる。これは本人に見せたら怒られると思ったんだろう。 それに、七代の目に自分がこう映っているのだと思うと。 胸の奥から熱く沸き上がったものが、喉に詰まったような息苦しさ。じっとしていられなくて燈治は一歩まで縮まっていた七代との距離を、腕を伸ばしてなくした。「わっ」 後ろからいきなり抱きしめられ、驚いた七代の手からスケッチブックと携帯電話が床に落ちた。かしゃん、と小さな音が、西日の射す美術室に響く。「だ、壇……?」 うわずった声で七代は誰何した。突然の出来事で速くなった彼の心臓の鼓動が、シャツ越しで燈治の掌に感じる。「いきなり何を……」 とまどう声を発する七代は、床にページを広げて落ちたスケッチブックに目を止め「ちょ、まさか盗み見したんですか!?」と燈治を問いただす。「悪いけど、見た」 燈治は、はっきりと正直に告げた。すると見る間に七代は耳の先まで真っ赤になる。「ちょ……っと止めてくださいよ。黙ってみるなんて、ひどいじゃないですか」「さっさと見せないお前が悪いんだろ」「黙って描いているのに、その本人に対してほいほい、はいどうぞ、って見せられるわけないでしょうが。そんなのもわからないの?」 口が悪くなるのは、七代が素に戻ってしまうほど照れている証拠だ。だいたい、耳を真っ赤にされてまで怒られても、燈治には痛くも痒くもなかった。「そりゃあ、さっきまではわからなかったさ」 スケッチブックの中身を、知らなかったのだから。「だけど今ならわかるぜ」 燈治は抱きしめる腕に力を込めた。「お前って、俺が思っている以上に、俺のことが好きなんだってな。そうだろ、千馗」「――――なっ!!」 絶句する七代の耳に、燈治は「千馗」と唇を寄せた。 七代は目に映ったものをそのまま絵に起こす。そうして、自分の見ているものはこんな風に見えている。これが自分にとっての本当だと、伝えたがっていた。もし、今七代が描いている自分の絵にも同じことが言えるのなら。 すげえ、幸せだ。 見ているだけでも伝わる。七代が燈治を、どんな風に思っているのか。「…………!」 恥ずかしさが頂点に達したらしく、七代は燈治の腕から逃げようともがく。しかし、もともと体格差があるせいで、少し暴れただけではびくともしない。 燈治は口を開け、赤くなった耳を伸ばした舌で嘗めた。「ひゃっ」と七代の肩が竦む。薄くなった抵抗に気をよくして、耳の縁を口に含んだ。甘く噛み、時に強く吸う。「……ひ、ぁ…………っ」 耳朶に軽く歯を立てる。何度も何度もちゅっと音を立てるように口づけば面白いほどに、七代の身体は震えた。「ん…………っ」 七代の声は甘く弱々しくなる。流されまいと床に踏ん張っていた足が、胸を探る手の動きに翻弄され、次第に力が弱くなっていった。 七代の耳を噛んでいた燈治が「千馗」と直接鼓膜を振るわせるように、声を吹き込む。 抱きしめていた腕を解くと、七代が上体を捻って燈治を潤んだ目で見た。 今度は七代から腕が伸ばされる。燈治はそれを受け入れ、もう一度彼を抱きしめた。 二人分の影が、西日で美術室の床に伸びる。そして影はゆっくりと沈むように短くなり、二人が床に重なる音が、美術室に落ちた。 [0回]
われた雪夜に硝子が降る 壇主 東京鬼祓師 2013年04月29日 七代が投げた風魔手裏剣が、隠人の体を真っ二つに裂いた。致命傷を与えられた隠人は悲鳴を上げる間もなく、消えていく。情報の欠片が燐光となって辺りに散っていった。その内のいくつかが引き寄せられるように七代の手甲へ吸い込まれていく。『――終わったようですよ』 頭に響く鍵の声に、ふう、と七代は息を吐いた。「終わったな」 後ろからぽん、と肩を叩いた壇が、七代を労る。「怪我はないか?」「はい、大丈夫ですよ。でも手裏剣飛んだままなので取りに行ってきます」 目尻を緩ませて笑い、七代は最後に倒した隠人がいた方向へ歩きだす。その背中を見守りながら、燈治は不思議な気持ちになった。元々あの風魔手裏剣は玩具店で売っている子供用の、投げて当たっても痛くない素材で出来たブーメランだ。呪言花札で強化していても、あそこまで見た目も威力も変化しているなんて。封札師の《力》の凄さを感じてしまう。シャープペンシルが大きな西洋剣に変わったときが一番驚いた。「……おい」 不機嫌な声が燈治を呼んだ。燈治と同じく探索に同行している御霧が「何をぼおっとしている」と刺々しい声で言う。「今日はまだ一度も休憩を取っていないぞ。さっきの隠人の戦いは何度目だと思っている」「……っ!」 失念していた。燈治は慌てて手裏剣を取りに行っている七代の方を振り向いた。ぱっと見るといつもと変わらないが、足元がわずかにおぼついていない。「おい千馗!」 燈治は走り出し、しゃがんで見つけた手裏剣を手に取る七代の腕をがっと掴んだ。 いきなり後ろから乱暴に引っ張られ「はい?」と七代は燈治を見上げる。彼の頬は、先ほどの戦闘前より確実に赤く火照っていた。掌でそこを包み込めば高くなった体温を如実に感じる。「お前また熱上がってんぞ!」 どうして本人が気づかないんだ! と若干の苛立ちを感じながら燈治は叫ぶ。 七代の右手甲には隠者の刻印が刻まれている。隠人を倒した際、その刻印を通して情報を取り込み《カミフダ》を自在に使役する能力を持っていた。 しかし七代はその集めた情報を《力》に変換する際、体温が上がってしまう体質を持っている。彼曰く、たくさんの情報が集まると処理しきれないらしい。そのせいで、こまめな休憩が探索中必要とされていた。 だが今回はまだ休憩を入れていない。今日洞に足を踏み入れてから数度の戦闘をしているとなると、今の七代はかなり体温が上がっていると考えられた。 倒れることすらある。しかし、今日はまだそんな素振りを見せていなかったので、燈治は油断していた。「確実に倒れるレベルだろこれは! 早く言え!」 怒る燈治に肩を竦め「で、でも……」と手裏剣を手にして七代は腰を上げる。「今日は調子もいいし、休憩を入れてそれを崩すのもどうかな、と思って……」「その油断が命取りになるんだ。……いいからそこに座れ」 つかつかと御霧が二人に近づいた。そして座れる手頃な大きさの岩を指さし、七代に指示する。「で、でも、大丈夫ですよ?」 何とか七代は燈治と御霧を宥めようと笑って見せた。しかし赤ら顔で言われても、説得力は皆無だ。「……」「……」 二人から無言で睨まれ、七代は「はい、すいません」とおとなしく岩に座る。すると、ぐらりと身体がふらついた。右手から発する熱が、情報が、全身を巡っている。本当に大丈夫なつもりだったが、身体が悲鳴を上げていた。 頭から前のめりに倒れそうになり、七代はふらつく頭を押さえる。「……全く、お前は熱暴走を続けるパソコンか」「うう、面目次第もございません……」 的確に弱いところを突いてくる御霧に、七代はさらに身体を小さくした。七代の味方になってくれる燈治も今回ばかりは御霧に賛同のようで、口を挟む素振りなはい。「いいから黙っていろ。無駄な動きをしていたら熱が下がるのに時間がかかる」 御霧は持っていた弓を肩に担ぎ直し、持っていたパックバックから冷却シートを取り出した。ビニルを剥がして七代の前髪を掻き上げると、容赦なく冷却シートを剥き出しになった額に貼りつける。「つめたっ」 七代が肩を竦めた。「当たり前だ。冷却シートなんだからな」 御霧がふん、と鼻を鳴らし、後ろで成り行きを見守っていた燈治を振り向いた。「おい、お前もそこで面白がってないでとっとと持っているものを出せ」「へいへいっと」 さして反論もなく、燈治は背中に背負っていたデイバッグから水筒を出す。準備のいい二人に、おれはそんなにわかりやすいのか、と七代は自分が少し情けなくなった。「うう……おれとしては、早く今日の依頼をこなしてしまいたいんですけど」「悪いが、この点に関して俺は全面的に鹿島に同意だ。諦めろ」 予想していた答えが返り、七代は肩を落とした。それを見て燈治は笑い「ほら、熱が治まるまでこれでも飲んでろ」と水筒のカップに冷やされたスポーツ飲料を注いで渡してくれた。「……ありがとう」 素直に受け取り、七代はスポーツ飲料を一口含んだ。まだまだ平気だと思っていても、やはり身体は熱のせいか水分を欲している。あっと言う間に一杯飲み干してしまった。 空になったカップをまじまじと見つめる七代に「もう一杯飲むか?」と燈治が意地悪く笑って水筒を傾ける。意地悪だ、と思いながら七代は無言で燈治を睨み、それでもカップを差し出す。 おかわりをする七代を横で見ながら「全く」と御霧がため息をついた。「自分の体調管理ぐらいきちんと出来ないでどうする。これじゃあ、効率よく探索なんて夢のまた夢だ」 にべもない言葉に「ぐっ」と七代が呻く。そんなことない、と言いたかったが、こうして休んでいる今、何を言葉にしても説得力はない。「そんな顔をするのなら、自覚はあるようだな。これで何もわからないほどの馬鹿だったら、義王以上の救いようがない――馬鹿だ」 眼鏡のフレームを指で押し上げ、御霧の説教はさらに続く。「わかっているのなら、とっとと効率よく隠者の刻印を使えるようにしろ。……全く、いちいち足止めを食って時間がかかりすぎる。そんな体たらくで呪言花札をすべて集められるのか疑問だな」「う、うううう……」 歯に衣を着せない物言いが次々に七代の胸へとぐさりと突き刺さる。 思わず七代は苦しそうに胸を押さえた。御霧の方が正論すぎて、返す言葉も見あたらない。 そうだよな、呪言花札も後もう少しで集まるのに。落ち込んでカップを持つ手を膝に乗せて小さくなる七代に「そんな顔すんな」と燈治が小さく笑った。「……?」 燈治を見上げ、七代は首を捻る。「鹿島の野郎もあれで心配してるんだと思うぜ。アイツが本当にどうでもいいことなら、無視してとっとと先に行ってるだろうからな。つーよりさ、お前にそんなの貼ってやる時点で心配してんだろ」 これ、と燈治が七代の額に貼られた保冷シートを軽く指先でつついた。「わざわざ自分で貼ってるしな。そんなの目の前で見てた俺としちゃあ、さっきの台詞とか聞いても説得力ねえぜ」「あ、ああー……」と燈治につつかれた保冷シートを掌で押さえ、七代は心底納得した。 御霧はどうでもいいと思うような人間の世話を焼くような性格ではない。いや、もしかしたらどうでもいいと思えるような人間が目の前にいても、苛々しながら世話を焼いていそうだ。何せ、盗賊団員の為に手編みの腹巻きを作っていたんのだから。「なるほど。御霧は俺のことを心配して、敢えて厳しい態度をとっていたと」とこくこく頷く七代に「……だろ」と燈治は笑った。「……お前ら」 その二人を前にし、御霧がこめかみを引きつらせ、感情を抑えて震えた声で言った。平素を保っているようだったが、明らかに怒っているのがわかる。「……何、人の前で堂々と話してるんだ」「悪い話じゃないからいいじゃないですか」 ふふ、と七代は口元を緩めて微笑した。燈治のお陰で御霧が心配してくれたことがわかったせいか、怒られているはずなのに、ちっとも怖くない。「いい訳あるか。お前らはとっとと口を閉じろ」「何恥ずかしがってんだよ。別に面倒見いいのは悪いことじゃないだろ」 燈治も七代に合わせて言うと、御霧の眉間の皺がさらに深くなる。「もういいわかった、お前らそこに並べ」 御霧は肩に担いでいた弓を両手で持ち直し、矢をつがえる。「順番に射ってやろう。ほら、並べ」「千馗、逃げんぞ」 ほら、と七代の手から水筒のカップを取った燈治は素早く蓋を閉め、デイバッグに入れながら走り出す。「あいあい」 休憩と冷たい飲み物が効をそうして、すっかり熱が治まった七代も、燈治に続く。「まて、お前ら!」 御霧の鋭い声が飛んだ。怒っている様子を肩越しに見やり、七代は何となく、義王やアンジーが御霧を構いたがる理由がそれとなくわかった、気がした。 でもおれはほどほどにしておかないと。せっかく心配してくれたのに。 額に貼られた冷却シートにそっと指先で触れてから、七代は反対の方向へ方向転換する。なんだかんだ言いつつも、世話を焼いてくれる盗賊団の参謀の怒りを宥めるために。 [0回]
名前を呼べない、取るに足らない理由 壇主 東京鬼祓師 2013年04月29日 ※エンディング後 壇主同棲設定です 今日はおれも壇も予定がなく、一日暇だった。ぽっかりと出来た空白の時間。だけど、おれたちは出かけるわけでもなく、二人でのんびりテレビを見ていた。 普通ならどこかに出かけるかとか、選択肢もあっただろう。外は晴れていて、出かけなきゃもったいないと言わんばかりの陽気だ。 でもおれたちはそっと寄り添って座り、そのまま動こうとしなかった。最近はお互いが忙しかったり、片方の時間があいても、もう片方が駄目だったり。何かと都合があわなかった。 だから、この時間はすべてを放棄しても、ただ隣に好きな人が居るって言う、些細な――でもとても幸せな時間を味わいたい。 両手でマグカップを持ち、自分で入れたカフェオレを飲みながら、おれは悦に浸る。自然と緩む頬。しまりのない笑みに気づいた壇が、読んでいたスポーツ雑誌から顔を上げ「何、気持ち悪い顔してんだ」と言った。「ふふふ」とおれは幸せを隠さずに笑い、壇にすり寄る。ふわりと鼻を掠めるシャンプーの香りは、おれと同じもの。ああ、一緒に暮らしてるんだな、と実感するおれに更なる幸福をもたらし、さらに壇の言うところの気持ち悪い顔になる。「壇と一緒に容れて幸せを噛みしめていたところですよ」「お前……」 はっきり嬉しさを表現するおれに、壇は一瞬絶句した。だけどすぐに破顔して読んでいた雑誌を床に投げる。 腕を伸ばして、ちびちびカフェオレを舐めるように飲むおれの髪の毛に指を差し入れ、くしゃりとかき混ぜるように撫でた。「ったく恥ずかしいこと言ってんじゃねえよ」「いつものことじゃないですか。今更そんなこと……」「ま、そうだけどな……」 長いつきあいになって、おれがどんな性格か壇は分かりきっている。軽く肩を竦め、頭を撫で続けた。 壇の手は撫でられていて気持ちいい。猫みたいに目を細めていると「今更って言えばよ」と壇が思い出したように言った。「千馗」「何ですか、壇」 呼ばれておれは壇を見る。だが、どうしてか壇は渋い顔つきになっていた。「それだよ、それ」「……はい?」 壇は撫でていたおれの頭から手を離し、そのままこっちの鼻先へと突きつけた。「どうしてお前はよ。俺を名前で呼ばないんだ?」「えっ……!?」 壇の指摘におれは動揺して大げさに体を振るわせた。両手で持っていたマグカップを危うく落としかけ、慌てて指先に力を込める。「……そこまで動揺することか?」 挙動不審になったおれを、壇が半眼で見やった。 変な誤解をされたくないおれは「違うんですって」とマグカップを近くのローテーブルに置いて、壇の方へ向き直った。「おれが壇を名前で呼ばないのはちゃんとした理由があるんですよう」「ふぅん……理由、ねえ」 あ、駄目だ。まだ怪しんでいる。 ……本当はあんまり言いたくない。だって、あまりに馬鹿らしい、取るに足らないものだとおれでも思うし。 だけど壇に呆れられる方がおれにはもっと怖くて。 おれは、小さく息を吸って正直に白状した。「だ、だって……」「だって?」「名前で呼ぶの、恥ずかしいですし……」「……はぁ?」 やっぱりだ。ぽかんと口を開ける壇におれは、頬を掌で包んだ。元々体温が高いのに、恥ずかしさからもっと熱が上がっていく感じがする。鏡を見たら、真っ赤になった自分の顔が拝めるだろう。「壇には大したことじゃなくても、おれにはすごく大したことなんです」 おれは横を向いてぼそぼそと呟いた。そう、おれは壇のことを名前で呼ぶことがとても照れくさい。口に出してしまったら、声からどれだけ壇のことが好きか、バレちゃうんじゃないかって。呼んだら、壇も喜ぶって分かってる。分かってるけど、その喜ぶ顔を見たら、おれが腰砕けになってしまうだろう。何せ壇に耳元で囁かれるだけでそうなってしまうのだから。推して知るべし、だ。 ただでさえ使いものにならなくなる時があるのに、そんな状況を増やしてたまるか。「おれはこれ以上熱くなりたくないんですって。察してくださいよう」「……」 壇は恥じ入るおれの横顔をじっと見た――かと思いきや、また腕を伸ばしてきた。今度は頭を撫でる為じゃなくて、おれの腰に回して引き寄せる。「っ」 後ろから抱きしめられる形になり、おれはびくんと肩を跳ね上げた。耳、耳のすぐ傍に、壇の息がかかってる……!「――千馗」 耳元で名前を囁かれる。意識して重低を響かせた声は、耳からダイレクトに痺れとなって腰に来た。 このままじゃあ、まずい。おれは「ちょ、ちょっとタンマ、壇」と体を捩って、壇の分厚い胸板を押す。「待たねえよ」 しかし壇はしつこくおれの耳元から唇を離そうとしない。「どうせお前は何でもかんでも恥ずかしがってばっかりじゃねえか。――いい機会だから、ここで徹底的に慣らした方がいいだろ」「慣れない! 慣れないから!」 おれは涙目でぶんぶん首を振る。徹底的に慣らす、と言うことは、ずっと耳元で壇の声を吹き込まされるということか。 ――冗談じゃない。 そんなことしたら、おれ、本気で腰が砕けてしばらく立てなくなっちゃう……! そしてこの展開だとおいしく壇に食べられるのは必死だ。嫌じゃない。嫌じゃないけど! 腰はもう壇の両腕にしっかり回されて固定されている。逃げ場はない。この危機を脱する唯一の方法は――。 おれは「わかりました! 壇のこと、名前で呼びます!」と高らかに言う。ここは壇の要望を通して少しでも時間を稼ぐべきだ。そうすれば、ちょっとは冷静になるはず。おれも、壇も。 心境の変化に壇が「ほお」と口元を上げた。にやにやした笑いは、少し面白がっているようにも見える。 鴉乃杜の頃はおれがからかって、壇の反応を面白がっていたのに。今じゃすっかり立場が逆転している。ある時――おれにはよく分からないけど、多分クリスマスが終わった辺りから、壇は積極的になってきている。初めて出会った頃にはしないような、優しい顔でおれに微笑みかけ、伸びる手は迷いなくおれに触れる。だから、こっちはいつも調子が狂いっぱなし。壇に翻弄される。 壇が、こんなに意地悪な奴だなんて! おれは今まさにそれをしみじみと思った。「じゃあ、言ってみろって」 男に二言はないよな、と壇が念押しして言った。「……わかりました」 おれは観念し、大きく息を吸った。うう、恥ずかしい。恥ずかしすぎる。 頬が熱くなった。心臓がばくんばくんと鼓動を打っている。 このまま穴を掘ってそこに丸まっていたい気持ちを必死に抑え、おれは壇が待ち望んでいる言葉をようやっと口にした。「と、とう……じ…………さん」 言った。言ったぞおれは! よくやったと自分を誉めてやりたい! しかし待望の言葉が聞けたのに、壇は首を傾げた。「……なんで、さん付けなんだ?」「……おれには呼び捨てはまだハードルが高すぎて……」 燈治、と今のおれが呼んだら、多分恥ずかしさに叫ぶ自信がある。「だから、慣らしていくためにもまずはさん付けから、でいいですよね。と、とうじ、さん」「そのつっかえるのも慣らしていかねえとな」 ふんふんと頷きながら、壇はこれからどうすべきか解析していく。もちろん腰に回された腕は解けないまま――と言うより、背中から体重かけられているんですけども。 あっと、思っていたら押し倒されていた。フローリングに敷かれたラグの上、壇がおれを見下ろしてにやりと笑う。さっきよりも数倍は質の悪い顔で。「え、え、ちょ……っと、燈治さん? この展開は何なの?」「そりゃあ、少しでも慣らしておいたほうがいいだろ。名前呼ぶくらいじゃ恥ずかしがらないように、それ以上のことをたくさんすりゃあ、いけるだろ」「……」 うん、嫌な予感しかしない。おれは肘を突いて上体を浮かし、後ろへ逃げようとした。しかし壇はおれの行動など把握済みで、後頭部に手を回すと、自分の方へと引き寄せ接吻した。表面がちょこっと引っ付いて離れただけなのに、おれには効果が覿面で困る。竦めた肩を宥めるように後頭部を押さえた手が下がり、優しく背中を撫でた。「ここで逃げたら、十倍な」 囁く声に、おれは無駄な抵抗を止める。なにが十倍か、知りたいけど聞ける勇気はおれにはない。 間近で見つめ会う壇は、おれを見て惚けた顔で微笑んでいる。おれが、この男をそんな顔にさせているのだと思うと、なぜだか背中がぞくぞくした。 再びラグの上に横になったおれの服に壇の指がかかる。 観念したおれは「燈治さん」と名前を呼んで、これから来るだろう熱の波に備えるべく、そっと瞼を閉じた。 [0回]
はだかで眠る 壇主 東京鬼祓師 2013年04月29日 花園神社から続く春の洞の探索を終え、七代たちは電車に揺られていた。運良く空いていた座席に燈治、七代、弥紀の順に座る。 弥紀はマナーモードにした携帯で、巴にメールを送っていた。洞探索に弥紀か巴が同行する際、いつも帰る時に二人は互いに無事の連絡を入れていた。 マメだよな、あいつらは。横目でボタンを押す弥紀から視線を前に向け、燈治は流れていく新宿の風景をそれとはなしに眺める。 洞には化け物がうじゃうじゃと沸いている。だが、脱出してしまえば待っているのはいつもと代わり映えしない街の姿。日常と非日常を行き来しているせいか差異の激しさに、時たま身体がついてゆかない。「……っ?」 不意に燈治の肩へ重みが乗った。反射的に横を見れば、七代の頭が乗っている。そこだけじゃなく身体全体の重みが燈治に寄りかかっていた。「おい、千馗」「……」 返事はない。どうやら眠ってしまったようだった。「疲れたんだね」 メールを送り終えた携帯をしまい、弥紀が七代の寝顔を見て微笑む。「着くまでそっとしとこう?」「……だな」 七代は洞の探索に体力をとても消耗してしまう。時には溜め込んだ情報をうまく処理しきれず発熱するときもあった。秘法眼をなるべく使おうとしないのも、情報を処理する能力を制御するため。 いつも洞から出る七代は、眠たそうに瞼を擦っていた。そして今日は負荷が思いのほか掛かっていたのだろう。精神と身体の疲れが相まり、加えて電車の心地よい揺れ。あっという間に意識が夢の中へと持っていかれたらしい。 目的の駅までの短い時間を、燈治は肩を七代の枕にしようと決めた。なるべ動かないでいようと心がける。しかし電車の揺れが、徐々に七代の頭を燈治の肩からずれさせていく。 だんだん七代の身体が前のめりになっていく。このままでは、息苦しくなってしまう。 燈治はちらりと横を見た。先ほどまで他の乗客が隣に座っていた。だが、幸運なことに前の駅で降りていて空いている。 これなら大丈夫だろう。燈治は空いている横に少しずれ、傾いていた七代の身体を自らの方へ引き寄せた。膝に七代の頭が乗るよう場所を調節し、相棒の身体を落ち着かせる。 眠りが深かったのか、七代が眼を覚ます様子は全くなかった。同じ男に膝枕をしている燈治へ、周りの乗客から視線が集中した。 しかし燈治はそれら全部を一切無視する。 燈治にとっては、奇異に映ってしまう自分を取り繕うよりも、少しでも七代が眠れるようにするほうが大事だ。 人知れず、人のために戦う封札師のために。 心地よい寝顔に「気持ちよさそうに眠っているね」と弥紀が言った。「壇君の膝枕がいいのかな?」「……固ぇだろ」「でも本当に気持ちよさそう。口元が緩んでて、とっても可愛いよ」 弥紀は柔らかく笑う。 彼女がそこまで言う寝顔は、膝枕を提供している燈治からはあまり見えない。だけど、ここで覗き込んだら、周りの視線がいっそう冷たくなるだろう。さすがにそれに耐えられるほど、神経は太くない。 寝顔を見られない代わりに、燈治はそっと伸ばした手で、七代の髪に指を差し入れた。ごく弱い力で優しく髪を梳く。 がたん、と音を立て電車が僅かに速度を上げた。その拍子に七代の横髪が顔へと流れて耳が出る。ぽつんと蚊に刺されたような赤い痕がその後ろにあった。「……」 燈治はさりげなく髪を直し七代の耳を隠す。そっと掌で耳の辺りを覆いそこで手の動きを止めた。 なんとなく、今七代がどんな表情をしているか、燈治は何となく分かった。 恐らくは閨を共にした時見られる時のものと同等の。「なんだかもうちょっとこのままにしてあげたいよね。だって、こんなによく眠ってるんだし」 降りる駅が近づいて、弥紀が眠る七代を見て考える。「この体勢はさすがにきついだろ」 燈治が笑った。「駅に着いたらさっさと起こしてちゃんと送ってやろうぜ。ちゃんと布団で寝たほうが疲れも取れるだろうしな」 それに弥紀は兎も角、七代の寝顔を他の誰かに易々と見られたくない。心の中でそう付け加え、燈治は緩く握った指の背で七代の頬をくすぐる。 んん、と七代は肩を竦める。その反応は二人で一つの毛布に包まるように寝ている時、見せるそれと同じで。ああ、やっぱり誰にも見せたくねえな、と燈治は早く目的の駅に着くようこっそり思った。 [0回]